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大内氏實録・現代日本語訳 その2 - 1159文字

はじめに

これは、大内氏実録(近藤清石著)の現代日本語訳シリーズ2弾目である。

原本

1弾目はこちら。

原本


多々良の氏名、其のよりて起る所詳ならぬ、新撰姓氏録に、多々良公あれ共、御間名國主爾利久牟王之後也、
天國排開廣庭天皇 ◯謚欽明 御世投化、金ノ多々利、金ノ乎居等獻、
天皇之譽多々良ノ公ノ姓賜也、
とあれハ出自ことなり、
烏田智菴 ◯享保年間の人、築山屋形盛襄記著者ハ、
神功皇后紀五年に、新羅使者三人捉、檻中納、火以焚而殺、
乃新羅詣、蹈鞴津ノ子次、草羅城找還之、
敏達天皇紀、八年春二月、新羅使遣調進、多常例盒、井多々良須奈羅和陀發鬼四邑之調進、
推古天皇紀、八年春二月、新羅、任那與、相攻、 中略 新羅王惶之白旗舉、将軍之麾下子致、
而立割多々良素奈羅弗知鬼委陀南迦羅阿羅等六城と見えたるる據て、多々良氏の始祖琳聖ハ、其の多々良人みて歸化の後、故國の地名を以て氏となしたるるや、佐波郡の郷名多々良ハ、多々良人の琳聖着船せしよりの名なるべしと云えるハ、さもやと思はるる考ながら、祀み見えらる多々良の地ハ、任那新羅の間にありて、百濟の地にあらず、琳聖ハ百濟国王聖明の子なりとあれば従ひがらし、猶よく考ふべし、

現代日本語訳

多々良(たたら)という氏名の由来については詳しいことがわかっていません。新撰姓氏録には、多々良公について「御間名国主爾利久牟王の子孫であり、欽明天皇の時代に帰化し、金の多々利や金の乎居などを献上したため、天皇から多々良公という姓を賜った」という記述がありますが、これは異なる出自を示しています。

享保年間の人物である烏田智菴は、「築山屋形盛襄記」の中で以下のように述べています:
神功皇后紀の5年には、新羅の使者3人を捕らえ、檻の中に入れて火をつけて殺したとあります。その後、新羅に行き、蹈鞴津の様子を見て、草羅城を取り返しました。

敏達天皇紀の8年春2月には、新羅が使者を遣わして調を献上し、通常の品物に加えて多々良須奈羅和陀発鬼という4つの邑からの調も献上したとあります。

推古天皇紀の8年春2月には、新羅と任那が戦い(中略)、新羅王が恐れて白旗を掲げ、将軍の配下に従い、多々良素奈羅弗知鬼委陀南迦羅阿羅など6つの城を割譲したという記録があります。

これらの記録に基づくと、多々良氏の始祖である琳聖は、多々良の人々と共に帰化した後、故国の地名を氏としたのではないか、また佐波郡の郷名である多々良は、多々良の人々の琳聖が船で到着したことに由来するのではないかという説があります。これはもっともらしい考えですが、史料に見える多々良の地は任那と新羅の間にあり、百済の地ではありません。琳聖は百済国王・聖明の子だとされていることから、この説には従いがたい点があります。さらなる検討が必要でしょう。​​​​​​​​​​​​​​​​

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