日が暮れても野球ばかりしていた

ここ数年あたためていたアイデアの野球小説。
ふと思いついて書きはじめ、1部は書き終えた恋愛未満小説。
さて、どちらを優先しようかな、と思いながら、ぐだぐだと野球速報をチェックしている。

相変わらず、調子が上がってこないので、この文章もまたリハビリみたいなもの。
ここ数年、エルバでずっと野球を観たり、野球談議をしている。
横浜ファンとオリックスファンの友人と、中日ファンの僕。

レコメンドされたYouTubeなどを追っていくと、いちばん好きな谷繁元信に必ず辿り着く。
ちょっとだけ個人史を綴ると、小学三年生くらいまでは、ピアノや水泳を習っていた。とはいえ、ピアノはピアノ教室の先生が、不出来な妹をがんがんひっぱたくから、直ぐに辞めたけれども。
水泳は、学校代表の選手だった。島根の本当にど田舎だから、喘息を穏やかにするために習いはじめたとはいえ、そうなるのは割と容易かった。ずっと好きだった図工の時間に書いた絵は、中国地方大会に入選した。だけれど、担任がそれをクラスメイトの前でさらすから、とっとと絵を描くのを辞めた。というか、学校に行くのを辞めた。

野球はずっと好きだった。というより、当たり前に生活の一部だった。いちばん遊びに行ったのは広島市民球場か広島にあった遊園地のナタリーで(ナタリーはウエノコウジさんやアベフトシさんのデートコースだったらしい)、島根のど田舎にしては珍しい団地だった(苦笑いしてしまう)我が家の近くの小さな公園で、大嫌いな友達と大嫌いなままずっと野球をしていた。テクノを知るはるか前(そう、僕たちは憎しみ合いながら、同じ音楽の元で踊るのだ)。テレビといえば、ずっとどこに行っても巨人戦が好むと好まざるとにかかわらず点いていたし、車でかかっているのは巨人戦だった(中日・近藤真一投手の初登板でのノーヒットノーランも車のなかで聞いていた)。父親が、当人曰く、梨田選手の前の島根の高校有数のキャッチャーだった、神宮球場で試合をした、という、どこまでが事実かわからないことをいっていたけれど、小学四年生になると、少年野球が始まり、それは学校の男子生徒は全員参加だったため、そして、その父親が監督になったあとはなおさら、とにかく野球漬けだった。

そして僕がピッチャーでレギュラーをしていた頃に、島根の高校が甲子園でベスト8まで行った(正確な記憶はあいまいだけれど)。谷繁がそのチームを率いて、そしてラッキースタンドのまだあった甲子園でツーベースを打った光景はいまもぼんやりと覚えている。正確には谷繁は島根県出身ではなく、広島から越境入学していたと知ったのはだいぶあとになってからだ。しびれた。いまではあるかどうかも知らない実家の、どうなったのかすら知らない僕の学習机には谷繁のオレンジカードがあるかどうかもわからないまま家を出たけれど。

谷繁が大洋ホエールズに入団した後、その頃は割と平日昼間にもデイゲームをテレビで放送していたから、いまでも新浦投手や斉藤明夫投手や遠藤投手の球を受ける谷繁を見ていたのを覚えている。秋元捕手や市川捕手のサブ的な存在だったとはいえ。

僕はといえば、父親が監督で僕がエースだったことを面白く思っていない父母会から直接・間接問わず、とにかく文句ばかり言われていた気がする。当時から根性がねじ曲がっているので、ずっと練習していた。休みとなれば、団地のゴミ集積場の壁に、ずっとボールを投げていた(友達が気付けば、いなくなっていた)。
監督が父親の場合、打球や送球を例え眼球に受けても、平気な顔で練習に戻らなければならなかったりもする。
どうかと思う。第一、暑い日、カットされたはちみつ漬けのレモンは嫌いだし、だいたい、熱中症気味の俺にまだ投げさせるのかよ?と思いながら、ふらふらでマウンドに向かっていた。

冬になればなったで、あたしゃね(主語が変わっている)、バスケで初めて、補欠になって悔しくて、あの絵をさらして嗤った、クラスの担任でそのチームの監督にすごーく腹が立って、やっぱり雪のなかで一人でずっと練習して、あっという間にレギュラーを奪った。ひねくれているだけだけれど。

とはいえ、中学に入って、ほとんど学校に行かなくなっていた僕は(音楽とも出会い)、野球をほとんどしなくなっていった。タブーにしていた。高校に入って、その高校の高校野球の監督のオファーが父親に来た時、あたしゃね、初めて家を出ようと思った。

タブーが解かれたのもまた谷繁だった。野球を観なくなっていた1998年。夏に予備校の合宿でたまたま見かけた東スポに、横浜ベイスターズの躍進が載っていた。谷繁かあ!と思った。知っている選手はほとんどいなかったかな。一人暮らしだったし、少しどぎまぎしながら久しぶりに野球を観た。観ていた。秋に、祖父が亡くなり、祖父宅で錆びれたバットや手入れされていないグローブを目にしたものその頃だった。

学生時代には松坂のオープン戦初登板や、初恋のおひぃさまとのデートや、池山や潮崎の引退試合を見に行って、隣の女の子が泣いていた。まだ誰かと付き合ったこともなかったけれど。

その谷繁が移籍した中日には落合監督がいて、それからはまた一気だった。本当に面白かった。
谷繁が監督になってからは実はあまり見ていないけれど。
YouTubeの解任された後、というかいまの谷繁の解説がまた面白くてついつい観てしまう。
落合監督との仲がどうとかは知らないけれど、たぶん落合監督と谷繁の野球観に関しては、同じだよなぁ、いや、似ているよなぁと思う。

そして個人史でいえば、ずっと前の職場で預かっている少年と二人で、野球ゲームをしていた時に、彼よりムキになって野球をしている僕に彼が、「うるさい」と笑った時、何かが解かれた気がする。そして、昭和から(アル中だった祖父)、平成と令和(父とあたし)にかけての、ある一家と野球とのかかわりを通じた時代が裂けていく、そんな小説を書きたいなあと思いながら、体力がいるなあとも思う。

と、今日はこんなところです。
お読みいただいた方がいらしたら、ありがとうございます。

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