聴力。
ってことで、本当に耳がしんどくて、
病院に行って来ました。
耳自体は綺麗だといわれました。
無音室に入ったのは、初めてかな?。
ジョンケージ!。
お腹の音まで聞こえる中で、検査。
音が鳴るとボタンを押す。
無音室とまでは行かないにせよ、
以前の検査ではもっと的確に答えられたはず。
それでまたストレスを感じる。
検査結果は、これでも良く聞こえているとのこと。
平均より、良い、と。
ただ、ストレスと睡眠不足で、
これからは良くも悪くもなる、とのこと。
低い音がうまく聞こえないでしょ?。
はい。
一応、薬で様子を見ます。
以前ならどれだけ、耳が良かったんだ?と、
笑うし、少しへこむ。
凄く細かな、遠くの方で鳴る音が、
いまはうまく聞き分けられない。
今日、
大友良英さんの話を思い出した。
音遊びの会、かな?。
正確には思い出せないけれど、
障害児が楽器を持って演奏する、
ライブをやる、イベントについての文章で、
それを読んで、
僕にとっては当たり前であった、
聞こえる、見える、などが、
音楽に関わっているにもかかわらず、
聞こえない、見えない、などのひとたちに、
そして彼女たち彼たちがそれでもなお、
聞きたい、見たい、と思っていることに
対する、自分の想像力の欠如に、
泣いたことを思い出した。
ちょっとさすがに参っているのかも知れない。
昨夜から朝まで、ずっと悶々としながら、
不安になりながら、考えている。
いまでも。
これは結論のある話ではない。たぶん。
いまも不安がある。
耳も痛む。
でも。
自分の自明に思っていたことが、
揺るいだら。
考えることをする。
そして、
自分の想像力をもう一度、
振り返り、
広げる。
綺麗に終わらせようかな。
前に書いた詩がある。
きみが目を失ったら。
ぼくはきみの目になろう。
きみが耳を失ったら。
ぼくはきみの耳になろう。
そのポエムは、
きみが太陽を失ったら。
ぼくはきみの太陽になろう。
きみが音楽を失ったら。
ぼくはきみの音楽になろう。
で締め括られる。
これからは、
ぼくが太陽を失ったら。
ぼくが音楽を失ったら。
ぼくがことばを失ったら。
それを考えて行くことにも、
なるだろう。