何を知り、何も知らなかったことを知る。

3月11日、午前、晴天。

もう14,5年は経つのだろうか?。

友達のバンドについて、宮城と岩手に何度か行った。

当時のあだ名は「島根」だった。

処方された薬とお酒のチャンポンで記憶が定かではないけれど。

最初に行ったのは志津川の港の丘のカフェだった気がする。

「DJ機材を用意しておきますね」というメールのもと、たくさんのCDを持って行った。現地について、機材を「これ使ってください」といわれて見たら、DVDプレイヤーだった。DVDプレイヤーをPA卓に繫げて、手持ちのCDを一枚一枚再生していく。ちょっとだけ笑った。

そのカフェから歩いて10分のところに建っていたホテルでお風呂に入ることにする。僕はひとりでホテルに行き、お風呂の使えるチケットを買う。3000円くらいしただろうか?そのうちの2000円が、そのホテルの売店で使える無料チケットで、その使い道に困りながら、お風呂を目指す。するとホテルのソファーでだらだらしている、そのカフェにいた軽音楽部の高校生の女の子5人組を発見する。「これ使ってよ」なんて声を掛けて、僕はお風呂に向かう。でっかい海の見えるお風呂にひとり貸し切り状態でつかり、それからまたそのソファーを通る。「おっ島根君!さっきはありがとー」なんていいながら、「食べる?」って彼女たちは「ピノ」を差し出してきた。甘いものが苦手な僕は断ったけど、「爽」みたいなひとりででっかいアイスしか食べたことのない僕は、机の上に並べられた、みんなでシェアするための「ピノ」や小さなお菓子たちに少しだけ感動し、かわいいなと思う。

DJがどうだったかとかは覚えてはいない。

高校生の軽音楽部の歌うモンゴル800に手拍子で乗る、彼女たちの姿をいまでも思い出す。

翌年には漁港にステージが作られていた。

僕はその近場のお酒の売店でたらふくお酒を買い込み、ひたすら呑んだ。

やっぱり僕に話しかけてくる高校生。

それで、当然、大人(といっても僕よりちょっと年上だったんだと思うんだけれど)たちやミュージシャンのやる打ち上げに誘ってみる。

前の年とはちがう女の子たちがやっぱり5人くらい、地元の中華料理屋さんの宴会場にやってくる。

もう30手前だった僕は、彼女たちの間で、何を話し、何を聞いただろう。

地元の看護学校に進む女の子、部内恋愛のはなし。ふとある女の子にいう。「東京来るつもりなの?」適当だったけれど、驚いたその子は「うん」っていう。初めて聞いたと、驚くその子の友達。いま考えたらそれはそれで(僕が)どうかとも思う。その宴も健康的に21時には解散したのかな。泥酔した僕がその店を出る時に、「またね」と手を振ってくれた短い髪の女の子。

震災前、震災後、5,6回、宮城や岩手に行き、震災後の光景には黙ることしかできなかった。

彼女たちがいま何をしているかも、知らない。生きていてほしいと思う。

TVであの町が映るたびに思う。

それでも僕は僕で日々に追われ、何度も死にかけた。

せめて、生きていてほしいといまも祈ってる。

いつか行こう、と思いながら、あの港にはまだいけていない。

それが生き別れであろうと、ひとを喪うとき、僕は思う。

僕はそのひとの何を知り、いや、実のところ、何も知らなかったのだ、と。

だからせめて、いつかあなたの見てきた光景を僕に聞かせてね。

そう祈るばかりだ。

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