モリッシーの「speedway」
とにかくずっと調子が悪いので、布団の中で音楽を聴いている。で本当に何年振りかにずっとモリッシーの歌をずっと聴いていることが多い。サブスクリプション・サービスで、ザ・スミスだったり、ザ・スミス解散後のモリッシーのソロをあらかた聴いている…だったのだけれど、携帯が充電ケーブルの故障で1%しか充電できず、1%しか充電できないままならちょっとは面白いけれど、電源が落ちる時と、1%から10%くらいで充電が止まる時と、充電できても36%くらいしかできない時とのだいたいは3パターンくらいがあって、まぁずっと、充電ケーブルを差したり抜いたり、もういいやとほっといたり、ほっといて充電できたり、充電できなかったり、何の話だ?そうだ、だからこのパソコンに入っているモリッシーのソロ・アルバム二枚を聴いている。一枚は「you are the quarry」というもう、本当にいま大好きなアルバムだからまだしも、もう一枚は「Swords」だったかな、ちょうどモリッシーから離れていた時期のアルバムで、たぶんコンピレーションだったはずなんだけれど、2009年にリリースされたってことや曲名くらいしかよく分からない。かつこのパソコンにCDを入れても、DVDを入れても、まったく読み込まなくなっているので、いまはずっとその二枚を聴くしかない。
1994年に高校1年生だった僕にとって、ザ・スミスはそれこそビートルズやキンクスみたいにそれこそロック・ヒストリーの一部だった。ロックを聴き始めた当時の僕には、ちょっとした歴史の勉強感覚があって、同時にすごーく美しいメロディーに乗せて歌われるエキセントリックな歌詞が、とっとと学校に行かなくなっていた僕の自意識を刺激した。「高校を辞めた時と大学を辞めた時、どっちがしんどかった?」って、そりゃあ高校を辞めた時に決まっている。落伍感や背徳感と高揚感があった。ベックの「ルーザー」だってそこを刺激して、ずっと聴いていた。ビートルズは家族の運転する車や自分のうちで爆音でかけても、それにあわせて歌っても、「ああ、あんたは歌が本当に好きなんだねぇ」とおばあちゃんに目を細めていわれるだけだ。でもザ・スミスはちょっと違っていた。何が?何がってそれは僕の聴く時の気持ちだけれど。最初にロッキング・オンのザ・スミス回顧特集で8枚のアルバムがレビューされていて、それを読んだ時から、ファースト・アルバムのCDを買ったお店でレジにCDを差し出す時から(だって、あのジャケット!)、うちに帰ってCDの入っているビニールの袋を破って、ヘッドフォンで耳をふさいで、部屋を暗くして、再生ボタンを押してからもずっと。衝撃が走ったわけではない。なんだかよく分からなかった。よく分からないまま、飽きるまで聴いたわけではない。なぜならまだ飽きてないから。とにかくずっと聴いていた。気付けば、それは僕を侵食していた。侵食!だってまさにそんな感じだもの。当時からザ・スミスとは何だったのか?たくさん考えていたのだけれど、いまもひとことでそれを表すことばを僕は見つけられない。「ザ・スミスは俺だから」とチバユウスケさんがいったとかいわないとか。いちばん近いことばならそれだと思う。当時のロッキング・オンには毎月はいい過ぎだけれど、よくモリッシーのインタビューやレビューが載っていた。確か久保憲司さんだったと思うのだけれど、「モリッシーの歌は、今夜デートに行くんだけれど、デートに着ていく服がないってことを、そのクローゼットの前でくよくよしているキッズの気持ちをうまくいい表わしている」というようなことをおっしゃるひとがいて、そうそう!と柏手を打った(いまでもほんとだ!と思う)。
モリッシーのソロで最初に聴いたのは、「サウスポー・グラマー」だった。もうほんとに大好きなアルバム。さっさと東京に逃げてきた僕はベイNHホールでの来日公演に行った。音楽の記憶はほとんどない。ただ、とにかく目の前のひとがどんどんダイブして、ステージに上がっていくイメージ。白熱光しかない(と当時はそう思えた)ステージに逆光で映るモリッシーに抱き着くひとびと。そこからバックカタログを買い、リアルタイムでもモリッシ-をちょっとの時間追いかけた。完全に聴かなくなってしまったわけじゃないけれど、「you are the quarry」までかな?熱中して聴いていたのは。最近までは。でも、「ヴィヴァ・ヘイト」や「ボナ・ドラッグ」や「キル・アンクル」は実はあまり聴いていない。好きな曲はあるけれど。
何年か前に渋谷オーチャードホールでのモリッシーの来日に行った。取った席は二階席で凄くよく見えた。それに「speedway」というすごーく特別な曲をやった。「speedway」という曲はリアルタイムではない。でもその曲の入っている「ヴォックスオール・アンド・アイ」は「サウスポー・グラマー」のライブ会場でTシャツと一緒に買った。モリッシーってソロではロックな部分と、アコースティックな部分があるからちょっと説明しづらい(音は特に。ま、説明できるほど音楽的な語彙が僕にはないってだけなんだけれど)。アコースティック・サイドのモリッシーの最後のアルバムが「speedway」って曲で締めくくられていると書けば、ちょっとはかっこもつくけれど、それは正確ではないかもしれないという保留をつける。日本語に訳すと、その「speedway」という曲の最後は、「僕は僕なりの病的で、奇妙なやり方で、君に対して誠実でいるよ」とたぶん歌われている。そしてそこからのドラムソロ。たぶんいまではたくさんのモリッシー評が出ていて、もちろん自伝を含めて、それが、いやモリッシーの歌詞の詳しい解釈はたくさんあるはずで。でもこのラインこそが僕にとってはモリッシーなんだよな、といまは思う。もちろんたった一節に、彼のすべてがあるとはいわない。彼のすべては彼の曲のすべてにあるし、彼のすべては彼のすべてだ。言語化されていないところを含めて。音源化されていないところも含めて。例えば矮小な例だけれど、いま僕がこの文章を綴る時に感じる、あーいい加減この部屋を片付けなきゃなと思いながら、でもちょっとパソコンでモリッシーについて書こうか、いやウィスキー呑んでるしなあとか、書いてきながら一瞬だけ浮かんではさっと消えていくことばにさえならないちょっとした気持ち(書いているけれど)、それをぎゅっと鷲掴みにして、詩と音に乗せるのが、モリッシーって本当にうまいんじゃないかな?って気はする(うまいへたも実はよく分からないけれど)。曖昧だったり、複雑でひとことではいえないどころか、どれだけ文章を連ねても、綴っても(僕にはね)書ききれない感情ってやつ。それはいまだから、モリッシーの今までの歌をまとめて聴いて、ちょっとだけそう思うのだけれど。本当に美しいことばたち。でも「speedway」をがいまも特別な理由は、その一節が僕にとっては(逆に)その一節こそが僕の生きることを決めている、つまり「僕は僕なりの病的で、奇妙なやり方で、でも誠実に」生きていけばいいのかな?と勝手に思う。