本を読む、音を聴くー未完成7

タイトルとは違い、今回は映画を三本観た話から。批評や評論をするつもりではないです。僕にとって映画は自分のなかのイマジネーションを膨らませたり、暮らしのなかでのインスピレーションを貰うにうってつけの、例えば気持ちが落ち着いているときにする散歩のように、思考が浮かんでは消えていく。最近は安いノート片手にずっとメモを取っている。そして…映画の内容自体は実はあまり覚えていない。ここが、映画評論家になれなかった由来ですね。

まずは昨晩。是枝裕和監督・真実を観る。あらすじなどは省きます。三つの台詞が印象に残りました。「詩がない…詩が重要」「スクリーンで負けた人が、現実に逃げ込むの」「映画のために堂々と負けていいのよ」それぞれの別の場面で発せられたことばです。真実は、僕が大好きな映画についての映画でした。バックステージもの、といういいかただと、ニュアンスがちょっとちがう。映画の裏側を描く、といういいかたでも、ニュアンスがまた変わってしまう。カトリーヌ・ドヌーブが女優役を演じるこの映画は、映画に憑りつかれた者たちの映画に対する愛情の映画でした、といいきってしまうと失われてしまうコンテクストがある。映画に対する愛情の映画、というシンプルなことばで片付けれられるような作品ではない。映画に憑りつかれた者たちの、映画。そういったほうがしっくりくる。映画を観るとは。映画体験とは。少しずるをして、淀川長治さんが川喜多和子さんが亡くなったときの弔辞を引用させてもらいます。「これは、これはもう戦死です。戦死という言葉はきらいです。戦争はきらいです。けれども、映画の美しさをこれだけ、これだけ守って、とうとう…守って、守って、守って亡くなったあなたに、私は、映画の、ほんとうの文化の豊かさのなかの戦死を感じます。この、あなたの映画への愛、これを忘れることはできません。あなたの映画愛を、決して私は忘れません」映画を観るということ。映画を愛するということ。映画に憑りつかれるということ。「ほんとうの文化の豊かさのなかの戦死」初めてそのことばに触れた時から、僕は映画について考える時にふとよぎることばです。ここに置くのすら、勇気がいるような。果たして僕はそのような「ほんとうの文化の豊かさ」に触れているだろうか。

COLD WAR あの歌、2つの心を観る。やはりあらすじは省きます。主題はすれ違う二人のカップルの歴史とそこに流れているその時々の音楽、それにそのカップルと音楽を通して、その奥にある第二次世界大戦からある時期までの社会の移り変わりを描いた作品、とでもいえばいいでしょうか?。この簡単にした主題から思い浮かぶのは、メロドラマかもしれません。だがありていのメロドラマに落ち着かないのは、モノクロームで統一された映像のなかで、説明的な会話などほとんどなく、カメラワーク、カット割り、照明、編集もまた徹底して削ぎ落していく手法が、僕にとっては斬新でした。映画にさして詳しくもない僕には、ヌーベルバーグを安直に想像しながら、引き裂かれていくカップルと同じように、引き裂かれていく歴史と同じように、僕もまた引き裂かれていく。もう一度、観たいと思いました。映画を観ながら即興でスコアをつけていく場面などが、あるいはロックンロールが生まれた瞬間がそこに映っていたのも少しぐっと来た。

バルバラ~セーヌの黒いバラ~を観る。これもまたあらすじは省きます。バルバラという歌手も知らない。監督で主演のマチュー・アマルリックは確かデプレシャン映画の主演役者くらいにしか覚えていない。だけれど、この作品も映画についての映画のなかでも、本当に大傑作(といういいかたは得意ではないけれど)!。正直なところ、映画にのめりこみ過ぎて、バルバラにのめりこみ過ぎて、自己同一性を失っていく物語について、やはりその境界が僕にはくみ取れなかったけれど。それはデプレシャンの「魂を救え!」と「二十歳の死」を観ていた僕に、「デプレシャンは境界線の作家なんだ」と教えてくれた友人がいて、そのことばを借りれば、確かにこのバルバラ~セーヌの黒いバラ~はまさに境界線の映画でした。そしてバルバラという初めて知った歌手の声の美しさに、またしてもイマジネーションは膨らんでいくのです。

さ、次は何を観ようかしら?

#映画

#音楽

#エッセイ




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?