僕の好きな先生

何となく、思いついたので、いま書いておこう。
明日、仕事終わったら、編集しよう。

小学校の図画工作のA先生。
それまでは絵を描くのが大好きだった僕は、
コンクールで賞を貰って、
地方新聞にも載った。
だけれども、当時の担任に授業中に、
その絵を、「どこがいいのかわからない」と
くさされて、
その瞬間に、どっと湧く教室のなかで、
笑っているクラスメイトの顔をちらりと見て、
うつむいた僕は、
絵を描くことが本当に好きじゃなくなってしまった。
学校も段々と行かなくなり、
でもそのあとに、やっぱり写生大会みたいな授業があって、
たぶん水飲み場!を描いたんだと思う。
凄く雑に、蛇口から出る水を青く塗っていたら(やる気なんてなくなって)、図画工作のA先生に、
「水は青いのか?!」とめちゃくちゃ怒られた。
A先生のその声は担任の声とは別に、決して僕のなかでは嫌なものではなかった。
たぶん小4の頃だと思う。
学校はあまり行かなくなって、
でも図画工作室には割と(保健室と同じで)入り浸っていた。
何を作っていたかはもう覚えてもいないけれど。
旧いストーブに乗った、やかんではなく、鍋でもない、凸凹してひらたくて丸い金色のアルミ缶から上がる湯気をいまでも思い出せる。
旧いストーブのはなつ、匂いの優しさも。
A先生にはそれから水泳も教わった。
バサロ!が流行るか流行らないかの時で、
A先生が25mプールを息継ぎなしで泳いでいるのを見て、真似していた。
いちおう、学校代表の水泳選手にも選ばれた僕は、でも、学校の選抜大会の時に、ふとレース前に飛び込み台から眺める、名も知らない紫の花を見て、綺麗だなあとボーっとしてしまい、スタートをひとりだけ気付かずに、怒られたのも。
そういうところが変わっていない。

スイミングプールにも通っていて、
片目が義眼の、白髪ですらっと背の高いコーチの佇まいをいまふと思い出した。

中学の時の英語のK先生。
まるっきり1、2年と学校に行かなかった僕は、3年の二学期にようやく通い始めた学校で、何人かのクラスメイトと高校受験のために、居残りで英語を教わっていた。
それで人並みには英語ができるようになり高校も合格できた。

そして高校一年の担任であるO先生。
たぶん入学してから2日目の帰り道で、
いつもの(小、中学と行かなくなるのはいつでも帰り道での倦怠感が身体にまとわりついてくる、次の日だった)、その倦怠感と、
3日目の土砂降りの雨のなかで、自転車で学校に行こうとする、誘いにきた友達に謝って先に行ってもらい、我が家に引き返し、母親に限界であると告げて、泣き崩れたあと。
退学届が受理された年度末まで、
週に1日は我が家に来て、
O先生は学校に来いともいわず、
僕が興味のある話を聞いてくれていた。
何の話をしたかもいまは忘れたけれども。
高校時代は灰色なんだよ、と言われたのだけは覚えている。
いろんな色があって、それをすべて混ぜると灰色になるんだよ、と。

退学届を出した日、O先生が電話口で泣いていたと父親づてにきいた。

東京に出てから手紙を書いたら、
やはり電話口で、文学や藝術はよく分からないけど、
小林秀雄だな、とおっしゃっていた。

それからしばらくして、
母親伝いに、
O先生が教頭を勤められている新しい学校で、
高校はすぐにやめたけれども、
大検を取って、(地方ではそれなりに格好のつく)大学に入った子がいて、
彼が有名になるのをいまでも楽しみに待ってるんだ、
と毎年話していらしたと聞いた。
まだ吉報はお届けできないけれども!。
それからまた時間が経ってしまったけれども。

ようやくちょっとずつ頑張ってきている、
僕の好きな先生たちでした。

いいなと思ったら応援しよう!