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死にたいと、わかりたいという欲望について

久しぶりに日本酒を飲んだ夜。
最近、どうしてるかな?と思っていた友達が、いつものバーに入ってくる。
いつだって彼と会うと、映画や小説や音楽の話から始まって、ついつい冗談を混ぜながら、真剣に語ってしまう。
何を考えてるかわからない、彼は恋人にそう言われた、と言い、じゃあ、わかるってなんだろうね?って話になる。
普通さ、の普通や、常識的に考えて、の常識ってなんだろう、とも話し、話しながら考え、彼と別れた後も少し考えている。
わかる、ってのはずっと考えてきていること。
ただいまは、彼の恋人のそれは、彼をわかりたい、という切実な希求なんじゃないかな?とも思う。
好きだからこそ、わかりたい、わからない…そのもどかしさからくる希求なんじゃないか、と勝手に思う。

ある晩、ふと友人が言う。
死にたい、と。淡々と。
他愛のないお喋りをしながら、
僕は生きてれば良いことがあるとは言えない、
かと言って死ねば良い、とも思わない、と曖昧にしか言葉が出てこない。
ただ、僕は死にたい、と言うには歳を重ね過ぎた。
それでも自分より若い友達の死には慣れない、
そんな話をした。

僕がいま生きていられるのは偶然が重なったに過ぎない。幾つかの、いや、たくさんの偶然。
それは、生まれてきたことや場所や時間だってそうだと思うし、
ある日、昔の友達が投げかけてくれた言葉や、
経済的に頼る場所がいくつかはあったからだし、すがりつく思いや、復讐心だってあった。

それでもふいにその死にたい、と言う友人が、
目一杯可愛がってる友達の娘に、僕に対しても反抗期がきたら怖い!と笑いながら話すと、だけどあなたに対しても反抗期があったとして、
それをあなたが受け入れてくれたら彼女はとても嬉しいと思う、と言う。
それって!と思う。新しい発見だった!。
確かにこっちも嬉しいかも!と。
それは確かにずっとたずさえていく、言葉になるだろう。

秋が別れの季節から、出会いの季節にかわり、
10年が経とうとしている。
死にたい、と思っても、もっと具体的に、死は昔より実際の問題として、僕にはある。
僕の話でしかないけれど、死にたい、と言うのは生きたい、と言う欲望の裏返しだった。
それを彼女やほかの誰かと一緒にはしないけれど。
死にたい、と言う彼女に、何と言えばいいかはわからないままだ。

だけど、僕は、友達の娘の未来を見たいと思うし、その過程を見たいと思う。それがまだ死ねないな、と思う理由の一つだと勝手に思っている。
うん。勝手だし、何の結論もない。
秋の空はどこか切なく、悲しい。
それは何人かの亡くなった後に見上げた空と、
関係がある。
そして、こちらの思いとは関係なく、
空は流れていく。
友達の娘が生まれた日に眺めた秋の夕暮れは、
きちんと覚えている。
そして、そんな感情とは関係なく、空は流れていく。

いつか、死にたいと繰り返す彼女にも、生きる理由ができたらね、と思うのは僕のエゴだよな、と思う。
けれど、反抗期!の発見をくれた彼女に、いざって時に、少しは何かを返せたらなあ、とまた空を見上げたりする。

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