映画はひとを狂わせる

10数年ぶりにカラックスのポンヌフの恋人を観た。よく思い返すと、ポーラX公開時に、女の子とのデートでカラックスのリバイバル上映を観に、渋谷に通っていたのだった。そしてずっと、上映途中から彼女が泣き崩れて、デートが台無しにされた気がしたのは、ポンヌフの恋人ではなく、汚れた血だったのだと、いまはたと気付く。その夜、チェーンの居酒屋さんで、ふたりで語ったことはちょっとだけ覚えている。カラックスと、ベネックスのベティブルーと。愛はひとを走らせ、そして愛はひとを狂わせる。

とはいえその彼女のはなしはまたいずれにして。
僕の個人的な映画史を綴ってみたいと思う。
初めて映画を観たのは、まだ小学生にも満たない幼き日で、グレムリンの2だった気がするけれども、果たしてグレムリンに続篇があったかは、調べない。怖くて、怖くて、開始早々に泣き出した僕を、母方のアル中の伯父が抱き抱えたのを覚えている。恐らく、直ぐに退席したのだと思う。
小学生の時分には、音楽の授業が嫌いで、それだけの理由で、ジブリ映画も、ブルーハーツも避けていた。教師に歌わされることが嫌いだった。歌うことは好きだったにも関わらず。
小学生の頃に観て、覚えている映画は、ぼくらの七日間戦争だけかもしれない。それと、昭和が終わりかけた時に、妹が借りてきたシュート!というアイドルが主演のサッカー映画。
中学生になって、引きこもり活動が本格化したのち、映画を見始める。映画が吹き替えで週に2、3度、ゴールデンタイムに水野晴郎や淀川長治、高島忠夫の解説付きで放映されていた頃で、割と直ぐにVHSを編集することを思い付く。CMをカットするために、僕がとった手段は、ビデオテープの切り貼りである。ハサミとセロテープで、CMの部分だけテープを切って、残りをテープの後ろからセロテープで貼り付けていた。しかも、当時よくテレビで流れていたのは、ロボコップやダーティーハリー、バックトゥザフューチャーなど続篇のあるもの。それを一本のVHSにまとめる。さらにいえば、そのVHSのラックには、当時は一時間番組だった、全日本プロレスと新日本プロレスとさらにF1グランプリも並べて、悦に入っていた。
中学二年で、ひと月のカナダへの留学でフックを何度も何度も、ホームステイ先で観た。英語はからきしだったのだけれど。ぼんやりと、カナダへの留学を、それも映画の専門学校への留学プランを将来的に考えていた。実際、英語圏の留学可能な高校が掲載された雑誌を読み込んで、妄想だけはしていた気がする。
中学二年から三年にかけては、同級生に誘われて、広島にたまに映画を観に行くようになっていた。車で二時間の旅。山下清の個展を見て、お好み焼き、それもお好み村!というお好み焼き屋さんだけのビルでごはんを食べて帰る、たまの楽しみが、山下清や野球から、映画に変わって行った。
観たのは、いますっと出るのは、ペリカン文書、逃亡者、パーフェクトワールド、ボディガード、ジュラシックパークくらいか。ほかにフィールドオブドリームスやダイハードにインディアンジョーンズ、メジャーリーグなどもみなでVHSで観ていた気がする。スタンドバイミーはVHSで買ってもらってさえいた。ハリソンフォードやブルースウィルスやケビンコスナーがスターだった時代。スクリーンやロードショーという雑誌をたまに買ってもらっていた。確か、スクリーンはケヴィンコストナーなどと記していた時代。

高校に入り、2日で辞めた後、初めて一人で広島の単館上映の、今でいう名画座、二番館で、レオンを観る。雑誌を読んで、初めて自主的に観に行きたい、と思った映画。タイトルも忘れたがアフリカの日々だか、アフリカの友人だかというような、映画との併映だった。そして、レオンは想像以上に素晴らしかった。パンフレットはもちろん、サウンドトラックも買った。エリックセラというミュージシャンで、しかし主題歌のスティングの曲は、そこには収録されていなかったという苦い思い出がある。
文化には…当時はまだ裕福だった我が家の母親に無心して、映画や本に使うことであれば、文化にお金を出すのは惜しまない母親で、そうして月に数度かは広島へ出して貰った。彼女の口からフェリーニのはなしを一度だけ聞いて、驚いた記憶がある。我が家からは一時間の駅までの車の送り迎え、そこから二時間の鈍行列車の旅費と、映画のチケット代は出して貰えた。ご飯代は勿体なかったので、広島でご飯を食べた記憶は…一度、年齢確認もされない時代にオールナイトで、ダメージという、ルイマルの、自分の結婚相手が自分の父親と道ならぬ恋に落ちる、僕にはトラウマになった映画と、トリコロール三部作をまとめて観た朝、唯一、映画館近くのホテルで、モーニングを食べたことしかない。
同時に、父方のやはりアル中の祖父が当時流行っていたBSやWOWOWを家で観られるようにしていたため、無理を言って…うちにあるものはすべておまえのものだ!が口癖の祖父に甘えて、ひたすら映画を録画して貰っていた。
ピンと来たのは、トゥルーロマンス、シングルス、ナチュラルボーンキラーズ、カリフォルニア、ケープフィアー。ジュリエットルイスが大好きだった。そして、いま思い返せば、好きな映画にはタランティーノが絡んでいた。ドラマ版、リンチのツインピークスも大好きで、あのパイを食べる夢を見ながら、グミばかり食べて、歯をダメにした。それからルームメイトという映画が心底、怖かった。
厨二といまではいわれるだろう背伸びで、フランス映画も観ていた。好きだったのは、マリージランのさよならモンペールに、ロマーヌボーランジェの伴奏者や、生涯の一作、ミナ!。ミナはもちろん映画館で観、パンフレットを買い、そのパンフレットに載っていたフランスの貧乏食であると書かれていた、確かじゃがいもをひたすら砂糖と煮て、パンにつけて食べる料理を、実家で作り、母と妹と三人で食べて、顰蹙を買った。じゃがいもだったのは気のせいかもしれないが。
そして、いま思い出したのだが、当時から母親と仲良しだった喫茶店のママが、映画が好きだとのことで、秘蔵のその録画したVHSを母親伝てにあげていた。そのママと面識はないが、母親が持ち帰ってくるそのママの特製オムライスは大好きだった。ジェームスディーンの大きなポスターをもらった。理由なき反抗もVHSで買ってもらったのだ。シャルロットゲンズブールも好きではいたけれど、ミナにも飾られているセルジュが、彼の作る作品が好みではなかった。それはいまでもかもしれない。

そして16の夏、上京すると、一人暮らしをはじめる。一人で暮らしはじめた最初の晩、テレビでスティーブンキング原作の、ITかミザリーかキャリーかそれすらも定かではないが、ホラー映画が流れていたのも覚えている。怖かった…。
以後、映画館に行く回数は一気に減ることになる。それでもマリージランの狩人たちの夜かな?主演作を公開初日の初回で観た記憶がある。パルプフィクションなどはレンタルビデオ屋さんで観た。それでもやはり映画自体を見る機会は減っていた。
ただ、実家にいた頃か上京後かは忘れたが、橋口亮輔の二作、渚のシンドバッドと、二十歳の微熱は観ていて、特に渚のシンドバッドの海辺でのコスチュームプレイでの告白シーンはいまだにベストの告白シーンかもしれない。

予備校に通いはじめた頃まで、まだ留学の夢はあった。UCLAの名前にときめいていた。その頃に出会い、おまえは早稲田か日芸にしろ、おれが勉強を見てやるから、と言った講師によって、僕は初めて日本に藝術の学校があると知った。早稲田の二文か日芸の映画か文藝。英語と現代文、小論文で入れるところで、実技などないところに、他は調べず、焦点を絞った。

さすがに日芸の映画科に受かった時には嬉しかった。理論評論コースとはいえ…監督などはハナから、履習科目を落とす自信しかなかったゆえ。
最初の、ゼミ合宿で初めて同期、確か16人と2人の教授と1人の補佐の方に会い、さすがにまずいと思った。出てくる名前が全く知らない監督や作品ばかりだった。覚えているのは、そして後々まで、あれは良い発言だったね、と揶揄い半分でいわれたのが、好きな評論家は?と教授に尋ねられて、切通理作と答えたとき。理由を尋ねられた。たまたま知っていた映画ライター。僕は、彼はほかの映画評論家の方々が誰も見ていないような、取りこぼすような、見逃すような、まるで気にもしない映画や作家を拾い上げるから、好きです、と答えた。

とはいえ、大学時代ほど、映画を観なかった時期はない。確かにカラックスのリバイバルはデートで行った。だけれど、そのガールフレンドと観た映画だけが、観た映画だったと思う。
流行っていたバッファロー'66などは、彼女にドタキャンされたんだった。その時期、観た記憶があるのは、橋口亮輔のhush!でこれは劇場で5回、VHSをあわせると30回以上、観たはず。ほかには、やはりリバイバルされた鴛鴦歌合戦を渋谷でレイトショーで観たことと、当時の親友の奥さんと、吉祥寺でアレックスという暴力描写の激しいフランス映画を観ていたら、開始10分で彼女が席を立ち、結果、二人で退席してお茶をしたこと。ゼミの男子7人のうち4、5人でシェイディーグローブを観たことくらいだ。だって、映画より実生活の方が、ロマンチックだったからね←。

四年に上がるタイミングで、退学届を出した。文章は物凄く面白いと思うが、Aをつけるが、だがこれは理論でも評論でもない。なぜ、溝口健二を語るのに、ドラえもん、それもしずちゃんの名前が出てくるのか?。いま考えなくとも、落伍していくのは当然だった。
しかし、そこから僕の勉強は始まった。ブックオフの100円コーナーと、親友により、そこから映画を観はじめた。なんせ、蓮實重彦すら読んでないまま、辞めたからね。そしてブックオフで橋本治さんの著作を手にして…いまでも桃尻娘などはなかなか手に入らない…一気にまた文化にのめり込んだ。スラプスティック、スクリューボール、ミュージカル、ハードボイルド、アート系、任侠。時間はたらふくあった。

そして、初めて彼女ができた25歳。彼女と借りた21gは、結局見ずに返した。それはまた別のはなし。だけれど、初めての彼女はいまは映画の仕事をしている。当時は現代思想と宗教学を学ぶ学生だった。

次に恋人ができたときには、そしてその子は唯一長続きした恋人だったのだけれど、初めて、美術館に連れて行って貰った。美術館で食べるアジアン料理の美味しさを初めて知った。初めてのことばかりだった。一緒に暮らす部屋で、映画が流れるテレビを観ながら布団に寝転がる下着姿の彼女を、僕は少し離れたソファーから眺めていた。映画を観るときは決まって電気を消すから、テレビの向こうの壁に映る、窓から入ってくる行き交う車のライトがそれはもう綺麗だということ。ついでに、銀座のホテルに連れて行って貰ったとき、初めてホテルのバーで背中の空いた黒いドレスを着る女性の横で呑むお酒の美味しさを知った。あれは…いつか恋人ができたら。いや、大切なひとができたら、もう一度だけ。その恋人との日々は、いずれ描きたいと思いながら、決して完成されないだろうと思う。そして、そんなことが、またあるとは、その恋人と別れた僕は思いもしなかった。そう、僕はいま2度目の恋をしているのかもしれない。なんてな。はははっ。疲れてきた。一筆書きだし、トイレも行きたいし、タバコも吸いたい。

それからはたくさんの映画を、いろんなひとたちと観た。特に、吉祥寺での爆音上映会での、ケミカルブラザーズ!。映画館がダンスフロアになっていた。そしてそこで踊り出したのが、いまの親友の奥さんだというはなし。

さらに、いまは女優さんになった女の子。出会ったときには17歳にもなってなかったんじゃないかな。恋仲ではもちろんない。その子が映画を好きだというから、うちのDVDコレクションをかなりあげたはず。ひなぎく、ジャンユスターシュとかかな?。彼女に最初に、そんなに映画が好きなら、かわいいし、女優になれば?といったのは僕だ、と思う。さあだんだん疲れてきた。また別の機会にしよう。だけど、彼女が今年公開の映画に出演すると聞いて、本当に嬉しかった。そう、いつか、僕が映画を作るなら、主演は彼女だと決めている。

いや、さすがに一気に二時間、携帯を叩いていると、まとまらなくなってきたな。とりあえず、ここまで。読んでくださった方がいらしたら、本当にありがとうございます。
またのち!。おやすみなさい。

#エッセイ
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