僕たちは何も始まってはいなかった

大学二年生のころ、はじめてデートに誘された。Gさ、水族館でも行かない?良いよ。と決めてから、計画を立てるまで、そして実際に計画を実行に移すまで何か月もかかった。誘いに断れない優柔不断な僕は、周りにせっつかれて、ようやく二人で新木場あたりの水族館に行った。大好きなペンギンのショーを見て、ペンギンのぬいぐるみを買って、それから高所恐怖症ゆえ乗れなかった観覧車を眺めながら、二人で何を話したかは覚えていない。

気付いたら彼女と、彼女の親友の三人で、毎週のように大学のあった街の喫茶店のチーズカレーを食べながらだべり、そこからカラオケに行った。それは習慣として、数年つづいた。二人っていつか付き合うよね、そんな噂が流れているのを耳にした。実際のところ、彼女自身がどうだったのかなんて、わからないままだし、僕はといえばどうだったのかなんて、僕自身いまだにわかってはいない。Gって前世で会ってたみたいに気が合うよね。G、30過ぎてお互い独身だったら結婚しよ?。そんなことばを投げかけられても、少しだけくすぐったく、でも、身体はずっと冷えたままだった。それでも三人で行ったクリスマスの恵比寿のイルミネーションが綺麗だったのを覚えてる。彼女が一生、残るプレゼントが欲しいっていうから、ネックレスをあげたし、彼女からは指輪を貰った。指輪を貰ったはいいものの、それは僕の趣味ではなかったし、トイレに立ったときに手を洗っていると、革で繋げられたパーツが剥がれて、危うく貰った初日に洗面台に流れ落ちてしまうところだった。なんとかその日は中心になっている銀の十字のモチーフに革を差し込んで過ごして、ボンドで後日くっつけた。

彼女が就職して、僕がニート生活に突入したころ、彼女が大きな病気をした。婦人系の病気で、彼女は有休を使って、しばらく家にいて、そして入院した。その二週間か三週間、僕は彼女にいわれるままに彼女といた。家で過ごす時には必ず、23時を回ってから不安の電話がかかってくる。終電にはまだ間に合う時間だ。来て?とはいわないひとだった。僕に、じゃあ俺が勝手に行くよ、といわせるひと。入院生活の一週間、毎日お見舞いに行った。来て、とようやくいった。毎日来て。僕の友達が「あの子はああいう子だから、その婦人系の病気って、子供ができるかどうかにかかわるから、大きいんだと思う」といった。桜の咲く時期、僕は桜の木の下を通って、大きな病院に通った。喫煙者の僕は、面会の間に煙草を吸いに外に出る。そこでは、僕の母親くらいの女性が、彼女の息子がお嫁さんにいかにひどい仕打ちをしているかをずっと聞かされた。喫煙スペースから帰るときに一緒になった年配の女性は、「初孫が生まれたの!」と僕にいい、「売店に絵本があって…どの絵本が良いかしら。でもまだ早すぎるかしらね」なんて、慌てふためいていて、微笑ましかった。退院前日、やっぱり喫煙スペースにいたら、キックボードに乗っていたひとりの少年が、僕の前でキックボードをとめて、しばらくこちらをうかがっていた。「キックボード、かっけえな」と話しかけてみたら、彼はキックボードを止めて横にして、僕の隣に座る。「僕のお兄ちゃんと同じ煙草だね」といって、僕の吸ってる赤いマルボロを見る。「お兄ちゃんさ、高校やめて引きこもってんだ。おかあさんはあそこ」とその大きな病院を指さす。僕は「俺も高校やめてるよ。大検ってのがあって受かったんだ。だから大学に行けたんだ」なんて話した。少年と間近で話すこと自体初めてだった。しばらく他愛のないはなしをしただろうか。春の暖かい日。「僕もお腹痛いから、今日始業式だけど、さぼっちゃった」なんて少年がいうものだから、「無理すんな。俺なんかさぼりまくりだよ」なんて二人で笑う。「たまにはさぼっても大丈夫だからさ」なんて大人のふりをして、かっこのつかない、かっこつけをしてみせる。「じゃあさ今度会うときはさ、お兄ちゃんの分のキックボード、持ってくるね」なんてかわいいことをいう。別れ際、「たまにはさぼるよ~」とおどけて笑う。顔も名前も聞かなかったけれど、ずっと忘れないのは毎年、桜が咲くからだ。

彼女の退院したあとも少しだけ、彼女の家に呼び出された。「私はあんたが呼び出しても行かないけどね」「Gが彼女できたら結婚の話はなしね」僕は聞き流しながら、いまだと二人とも必死に大人ごっこ、親友ごっこをやっていたのだと思う。必死に。応えなきゃ、応えなきゃと思っていた。

彼女にそのうち復帰した同じ会社に恋人ができた。ほっとした。良かった、と思った。それでもたまに呼び出された。うんざりしていた。大人ぶって、良い人ぶって応えてしまう優柔不断な自分にも。そこにかこつける彼女にも。役目は終わった、と思ったのがいつだったかはわからない。最後に手紙を書いた。長い長い手紙。始まりは「僕たちはまだ何も、友情ですら始まっていなかったんだと思います」そんな書き出しの。

あれからまったく会わないままだし、あの頃のことを思い出しても、心が少し寂しくなるだけだ。たくさんのひとを傷つけたこと。同時に傷ついてもいたこと。大人ごっこ。彼女の母国語で一つだけ覚えていることばがある。ポッポヨ。彼女が僕に残したのは、そのひとことだけなのかもしれない。

#エッセイ

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#桜

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