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「めっちゃ」を使う中高年の皆様へ


めっちゃ、という言葉、使ってますか?

私は多用しています。
アラフィフですが、なにか?😂

こういった、いわゆる【若者ことば】に対して、風当たりは強いですよね。
特に私のような中年以降の人間が使おうものなら、「知能指数低そう」「お里が知れる」などと罵倒の嵐。

なんで?
どうしてそうなるの?

過去、恐らく、この「めっちゃ」の前任者だと思われる「超」という言葉がありました。
もはや死語と化していますが、昨今もちらほらと、根強く生き残っています。
もしかしたら、「めっちゃ」を使う予定だったのに、思わず口をついて「超」が出てきちゃった、みたいな事例が存在するかもしれません。

そして、この「超」がめっちゃ流行っていたとき、同じ現象が起きていました。
中高年の皆さんは、使っちゃだめ!!
と。
「いい歳をして恥ずかしい」って。

言葉は生き物。

流行り廃りがあって当然です。
長期的視点で見た場合にも、平安時代に使われていた言葉が徐々にかたち(音や綴り)を変えていたり、時代背景に即したまったく新しい言葉が生まれていたり、かと思えば消え去ったり。

また、使う人も選ばれてきました。
社会階層、職業、性別・・・それらによって使える言葉(推奨レベルであっても)が違っていたのです。

ところが、現代(日本)では、女性が男性っぽい言葉使いをする、関東の人が関西圏の方言を使う、等、割とフリーダム。
だからこそ、かな。
嫌悪感、違和感を覚える人が一定数いらっしゃいます。

そもそも言葉ってなんだ?

ざっくり言えば、コミュニケーション手段のひとつ。
と、私は認識しています。
で、あれば、意図が伝われば、本来どんな形式でも構わない、ということになりますよね。

なのに、なぜ
>嫌悪感、違和感を覚える人
がいるのだろう?

コミュニケーションは、内容が伝わればいい、というものではなく、発信源の個性も重要な要素のひとつだから、です。

そう考えると、例えば、受け入れやすいコミュニケーションがある一方で、拒絶したいコミュニケーションがあります。
同じことを言われているのに、Aさんから言われるとムカついて、Bさんから言われると納得する、みたいなことですね。

話の内容以前に、その人の印象が決まっているため、フィルターを通して見てしまっている(聞いてしまっている)のです。
その証拠に、好感度の高い中年有名人が「めっちゃ」を使っても、あまり問題にはなりません。

不平等だなぁ、と思いますか?

先程の有名人が許されるのは、その人に対する認知度が高く、且つ、好感度が高いから。
裏を返せば、我々、非有名人は、初対面の相手には「めっちゃ」を使わず、気のおけない友人に対しては使ってもいい、ということになります。
もちろん、その友人も、自分に対して同様の気持ちでいてくれている場合に限りますが。

それと、公的な場(仕事の取引先や、気取ったパーティ会場など)では、いくら仲の良い人が相手だとしても、場の倫理**が優先され、普段では考えられないような丁寧な言葉づかいで話をすることが多いです。
もし砕けた喋り方をしたくなったら、やむなくヒソヒソ声ですね。

言葉を発することがいかに難しいことか。

SNSの誕生によって、さらにコミュニケーションの幅は広げられました。
対面は苦手だけれど、SNSなら流暢に喋れる(書ける)、という方も少なくありません。

コミュニケーションスキルは、生まれ持つものではなく、後々習得するものです。

スキルと言うからには、それなりの努力をもって会得しなければなりません。
しかも、終わりはありません。
変わっていく言葉をどう吸収し、どう扱っていくか、常に鍛錬が欠かせないのです。

願わくば、受け取る側が、もしその時は嫌悪感を抱いたとしても、それを挽回するチャンスを与えてあげられる文化でありますように。
言い間違いや、感情的発言に、炎上しすぎる世の中は、生きづらい。
丁寧な言葉を使ってほしいなら、同じくらい、人に対しても優しく、寛大であるべきだ、と思います。

**参考文献
河合 隼雄 『母性社会日本の病理』(講談社+α文庫、1997) 


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