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小説「なめらかに輪郭」2

私が住む芸大から徒歩20分のアパートは、
色鮮やかな屋根の一軒家や、首が痛くなりそうなほどの高階層マンションとは違って、
情報量の少ない簡素な作りで出来ていて、
風景とは浮いて存在している。

無機質なコンクリートの色味と、
アパート全体のシルエットが豆腐のように
正方形でつるんとしていて、
無駄な装飾が一つもないからだ。

でも、オートロックと宅配ボックスがあって、危険人物はもちろん、善意を持って荷物を運んできてくれる配達の人さえ会う必要がないシステムは、人見知りの私にとっては、
とても機能的で気に入っている。

硬いコンクリートは檻のようにとても頑丈で、まるで処女喪失を防ぐ貞操帯のように
外部からやってきたどんな物でも、
少し窮屈するくらいに、私を守ってくれる。

だけど、月末に近づけば近づくほど、
黄砂や埃で階段の砂汚れはひどくなり、
手すりがざらついていくことは
嫌なところだった。

よく管理人さんがモップとバケツを持って掃除をしているところを目撃するが、
積もりやすいのか、管理人さんが帰った後、
水分を含むモップを引きずった床の後に、
小さな糸屑が絡まったまま落ちているのを
もう見つけてしまったことがある。
その発見した時の心持ちは、
ふと朝目覚めた時にたまに感じる、
虚しさにも似ている気がする。

あと、コンクリートの壁は防音性には
優れているけど、寒すぎると結露ができて、
壁の表面を伝うようにして、
床に少量の水が溜まるとこも惜しい。
でも、冬独特の寂しさや孤独を感じる季節には、壁が一緒に涙を流してくれているような
気がして、そばに居てくれるように感じる。
だから、十八歳から上京して五年経った今でもなんだかんだ住み続けている。

何より、
無機質で簡素なことは
自分の感性に合ってるし、
短期間で次々と変わる恋人を持つ私にとって、アパートの印象はなるたけ薄い方が
都合が良い。



最近、夜勤で足がふらつく私は家に入ると、
靴も脱がずに、そのまま暗い玄関口に座り込むことが習慣になっている。
玄関掃除は忙しくてできていないから、
外から運んできた黄砂で汚れている。
当然、座るパンツのお尻部分には、
砂糖のまぶしたパンをかぶりついた時に
口周りにつくような、
うっすらとした砂がつく。

ふと足元を見ると、玄関には、見慣れない靴が置いてあった。アディダスの、白地に紺のラインが三つ入ったスニーカー。紐の端や紐通しの穴の縁が真新しく、ピカピカ光っているから新品なんだろう。しばらく靴を脱ぐのを忘れて、玄関口に座り込んだまま、それを眺めていると、真っ暗の奥のリビングから物音がした。暗かった廊下に、ぱち、っと電気が付く。
私は慌てて体育座りをし直し、顔を俯かせた。

「おかえり。」
恋人になって一週間経つ誠也くんは、
玄関口まで来て、わざわざ私と同じ体制で
しゃがみ込むと、顔を覗き込んだ。

「来てくれてたんだ、嬉しい。」
私は口の端だけをニッと横に引き伸ばした。

「夜勤だって聞いてたし、紗智がまた死んでると思ったから。水、いる?」

ロッカールームで飲んだゼリーのおかげで
喉は潤っているので、水はいらない。
だけど、誠也くんの「水、いる?」という、
最近、大学の飲み会で習いたてのフレーズを使って行う気遣いの練習に付き合ってあげないといけない気がして、首を縦に振った。

このところ、さりげないアピールのために、
意図的に作り上げられた仕草や声色で自分を演出する誠也くんの努力についていけなくなっている。全部、見え透いてるのに、それで私が彼のことをもっと好きになると思っているところが、尚更辛い。彼は、美大のクロッキー講座で、私が3時間着衣モデル、3時間ヌードをして日給8000円を手に入れた時に、一目惚れしてくれた。

「今日は、授業いつからあるの?」
「三から出る予定。あと教授にそろそろ顔出せって言われてるから行ってくる。」
「サボりすぎて大丈夫なの、留年とか」
「俺、芸術家だからサボってもいい絵が描けちゃうんだ」

彼はそういうと、鼻高々に冷蔵庫に入っていたペットボトルを持ってきた。

ありがとう、と差し出されたものを掴むと、
キャップは固く閉ざされていて、
新しいものだった。気が利かない。
開けといてよ。
というか、元々、水なんて
飲みたくないんだよ、私は。
潤ってるんだから。ゼリーで。

でも私はやっぱり、その蓋を開けて一口飲み、
生き返る!という顔を作った。

リビングで一緒にケロッグを食べた後、
彼に眠いからどっかに出ていって欲しいという気持ちを隠せないまま、彼のおすすめのフランス映画を付き添いで見た。虚な目で字幕とストーリーをを追っていると、画面の奥から、洗濯物をパンパンと恨みを込めて干す、母の幻影が見えるような気もした。その頃の小さかった私は、母の悩殺される沈黙の怒りに何一つ言いたい事言えず、小さなおさげの髪の端を口に含んでいたと思う。母が何に怒っていたのかは今では想像つくけど、それを言葉で表したことはない。気づいたら眠っていて、起きたら誠也くんは、大学に行ったらしかった。家に鍵もかけずに。

つづくかも?

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