私と僕
残暑が厳しいこの季節に、私は通信制高校の通学コースに転入した。人数は全学年合わせて十人だけで、建物は校舎ではなく、ビルだ。
「担任の牛見浩之だ。今日からよろしくな」
「乾かおりです。よろしくお願いします」
他の生徒たちに会う前に、牛見先生と顔合わせをした。けっこうイケメンだ。三十歳くらいだろうか。
朝のホームルーム。通常の教室よりも少し狭い教室で牛見先生に促され、他の生徒の前で自己紹介をした。とはいっても、牛見先生にしたのと同じことを繰り返すだけ。男子からも女子からも視線を感じる。早く座りたい……。
窓際の空いている席に座り、ホームルームが終わると多くの子から声を掛けられた。通信制の高校で人数が少ないこともあって、次に転入してくる子はどんな子と、興味を抱く人がほとんどのようだった。おかげで、私は初日から友達作りに困らずに済んだ。
「乾さんは兄弟いるの?」
「双子の弟がいるよ」
私に両親はいない。私が小学生の時に事故で亡くしてから、祖父母の家で暮らしている。
全ての授業が全日制の学校よりも早く終了し、最寄り駅まで仲良くなった子と一緒に帰った。その子と別れると、ふぅ、と息を吐き出した。今日は緊張しっぱなしだった。
皮膚が火傷するんじゃないかと思うくらいの暑く眩しい日差しのなか、帰宅途中に小さな雑貨屋に寄った。気分転換にと思ったが、店内で色々見て回るうちに水晶を使ったブレスレットと、透明なブルーの香水の瓶に目が留まった。どちらもセールで安くなっており、衝動買いした。
帰宅すると、おばあちゃんがリビングから顔を出した。
「おかえり」
「ただいま」
「大丈夫だった?」
「うん」
私は二階に上がって自室に入った。私服に着替えると買ったばかりのブレスレットを取り出して身に着け、香水の瓶は西日の差す出窓のスペースに置く。どちらも綺麗だ。
「やっと家に帰ってきたね」
カオルが声を掛けてきた。私は頷いた。
「ちょっと疲れたよ」
「それ、どうしたの?」
「綺麗でしょ? 雑貨屋さんで見つけたの」
「ふぅん。確かに綺麗だね。ねぇ、疲れたなら少し休んだら?」
「……そうしようかな」
私はベッドに倒れ込んだ。昔は眠ったら、すぐに朝がきてしまって眠ることが嫌だった。でも今は、眠っている間は何も考えなくていいからとても楽だ。
「僕がもっと綺麗にしてあげるよ」
「えっ?」
「……おやすみ」
「うん」
私はウトウトしてきてそのまま眠ってしまった。カオルが薄く笑ったような気がした。
眠りから覚めたら、ひどい惨状が目に入った。私は驚いて飛び起きる。
「何で……」
腕に着けていたはずのブレスレットが切れて水晶が床に散らばっている。それと同じように香水の瓶も割れ、破片が散乱していた。
「綺麗でしょう?」
カオルが微笑んで言った。私は賛同なんて出来ない。
「また、やったの?」
「またって?」
「前にもやったじゃない。私が綺麗だと思って買ったカーネーションの花びらを全部取ってばらまいたよね」
「あぁ、やったね。あのときはベッドだったけど、あれは花びらだからお風呂の方が良かったかなって、あとでちょっと思ったんだよな」
「どうしてこんなことするの?」
「どうしてって、綺麗だから」
「綺麗じゃない!」
私は思わず叫んだ。
「せっかく買ったのに」
「かおりが綺麗だって言っていたから、もっと綺麗にしようって思ったんだよ」
「壊しただけじゃない」
「そうだよ」
カオルは詫びれもせずに笑った。
「美しいものは、壊した方がより美しくなるんだよ。花びらだって、あの後に窓から外に落としたら、風に舞って綺麗だったでしょう」
その時のことを思い出して、何も言えなかった。実際にカオルが落とした花びらが風に舞っているのを見た時は、不覚にも綺麗だと思ってしまっていた。
私は悔しくて部屋を出た。あれは私が全て片付けなきゃいけない。
リビングに下りると、おばあちゃんが心配そうに聞いてきた。
「大きい物音が聞こえたけど、どうしたの?」
「何でもない」
私は冷蔵庫から麦茶を取り出して、コップ一杯分を一気飲みした。
今日も問題なく一日を過ごせた。転入してから順調に進んでホッとしている。
「乾、授業は大丈夫そうか?」
私は教室を出ようとしたところで、牛見先生に訊かれた。
「はい」
むしろ、通信制の学校は全日制の学校よりも授業内容が緩くて助かっている。
「そうか。気をつけて帰れよ」
私を気遣ってくれているのはわかったが、私は学校生活には不自由していなかった。
「先生」
「ん?」
「先生は兄弟いますか?」
私の急な質問に先生は目を丸くした。なんだか、かわいい。
「姉が一人いるよ。乾はいるのか?」
私は頷いた。
「弟がいます。双子の。先生は姉弟ゲンカってします?」
「子供の頃はしてたけどな。乾は弟とケンカ中か?」
「ケンカって言うほどでもないんです。私の弟、カオルっていうんですけど、カオルが私の綺麗だなって思ったものを勝手に壊すんです」
「壊す? 何でまた?」
「綺麗なものは壊した方がより綺麗だからって」
先生の眉間に皺が寄った。
「カオルはちょっと感覚がズレているんです。本人は悪いことをした意識がなくて」
「そのカオルくんは、他に何かするのか?」
「いえ、特には。私が気に入ったものにだけ、そういうことをするんです。だから、おじいちゃんやおばあちゃんは気付かないけど、私は困ってて」
「壊すのは参っちゃうよな」
その時、トイレに行っていた友達が戻ってきた。
「じゃあ、先生、さよなら」
「あぁ、気をつけてな」
学校を出ると、友達が言った。
「牛見先生って人気なんだよね」
「かっこいいもんね」
「噂じゃ、彼女いないらしいよ」
「そうなんだ」
駅まで牛見先生の話題が続いた。ホームで友達と別れて家に帰ると、カオルが挨拶なしに唐突に言った。
「牛見先生のこと、気になるの?」
「何、急に……。そもそも、何で牛見先生のこと」
「友達と話していたでしょう?」
「えっ、聞いていたの?」
「もちろん。かおりが新しい学校で上手くやれているかなって思ってさ」
私が口を開こうとしたら、おばあちゃんの声に遮られた。
「かおり? 帰ったの?」
お祖母ちゃんがトイレから出てきたところだった。
「あ、うん。ただいま」
私は靴を脱ぎ、急いで自室へ向かった。机の近くにある姿見の前に鞄を置いてから、カオルに言う。
「大丈夫よ。友達も出来たし」
「それなら良かったけどさ。気になるなら、友達だけじゃなくて牛見先生とも一緒に帰ってみたら?」
「私は別に……。だいたい、そんなこと出来ないよ」
「何で?」
「先生は私達生徒よりも帰りが遅いだろうし、先生は他の子にも人気みたいだし」
「誘ってみるだけしてみればいいじゃん。人気だっていっても他の子も交えて帰ればいいと思うし。帰るだけなんだから問題ないでしょ?」
「そんな簡単にいかないよ」
「出来ないなら、代わりに僕がやろうか?」
カオルの提案に対し、私はとっさに拒んだ。
「そんなことしないで」
「……そんなに勢いよく言わなくてもいいと思うんだけど」
そう呟いてカオルは拗ねた。
いつも閉じこもっていることの多い僕は、気分転換に外に出ることにした。昨日のかおりの反応も面白くなかったし。
無地のシャツにカーディガン、ジーンズと楽な服装で髪を束ねる。本当は映画でも見たかったけど、お金の問題があった。美術館もいいけど、展示してある作品によっては壊したくなるから、かおりから美術館の出入り禁止令が出ている。
結局、僕はチェーン店のカフェに入った。Sサイズのコーヒー一杯だけなら、かおりも許してくれるだろう。彼女のお年玉を使ってお金を払った。隅の空いている席に座り、コーヒーを片手にかおりの私物である小説を読んで過ごし、その後は本屋に立ち寄った。色々見て回っていたら、時間があっという間に過ぎた。
もう帰るかと本屋を出たところで、思わぬ姿を見つけた。牛見だった。スーツ姿でいる。恐らく、休日出勤なのだろう。
気付かれないように牛見を尾行したが、スーパーに向かっているのがわかってやめた。家に帰る前に寄るんだろう。そこまで時間を掛けて尾行を続けるつもりはなかった。僕は牛見に近付く。
「牛見先生、こんにちは」
牛見は振り返ると、僕の姿を見て「あっ」と声を漏らした。
「乾か」
「休みの日も出勤なんて、大変ですね」
僕は薄く笑った。牛見は気付いていない。
「あぁ、まあな。乾は遊びにでも出かけていたのか?」
「遊びというほどじゃありません。息抜きにカフェで読書していたんです」
「へぇ、優雅だな」
「先生は彼女、いないんですか?」
突然の質問で驚いたのだろう。牛見は目を瞬いた。
「彼女? 残念ながらいないが……」
「ふぅん。そうですか」
「美人な彼女でもいそうに見えたか?」
冗談で言っているようだ。
「何とも言えませんね」
牛見は苦笑した。
「そこは嘘でもいいから、はいって言ってくれないと」
「それはすみませんでした。牛見先生に会うのは初めてで、よく知りませんから」
「えっ?」
僕の言葉に牛見は固まった。僕を凝視している。
「かおりから聞いていませんか? 僕のこと。カオルです」
牛見は目を見開いた。牛見が何か言うまで間があった。
「双子の弟の……乾カオルくん?」
僕は頷いた。牛見は戸惑っていた。
「あぁ、そうか。申し訳ない。てっきり、お姉さんの方だと」
「いいんです。僕らはそっくりですから、よく間違われるんです。むしろ、僕はそれが楽しかったりするので。イタズラしてすみません」
「いや、こちらこそ、最初に確認するべきだった。でも、どうして俺のことを」
「かおりから学校のことは色々聞いていますから、牛見先生のことももちろん伺っています」
「……そうか」
何て言われているのか気になるのか、牛見は何か言いたそうにしている。
僕は牛見の意見を直接聞いてみようと、空を見上げた。オレンジ色に染まった夕焼け空だ。
「牛見先生はこの空を見て、どう思いますか?」
牛見を横目で見ると、僕と同じように見上げていた。
「綺麗だなと思うよ」
「それだけ?」
僕が首を傾げて訊くと、牛見は空から僕に視線を移動させた。眉間に皺が寄っている。
「それだけって?」
「僕はね、今すぐ嵐になってしまえばいいと思うんです」
「どうして?」
「綺麗なものが壊れる瞬間が、一番美しいから」
牛見は僕をじっと見た。
「君はそう思うんだね」
「はい」
僕はにっこり笑った。
「それじゃあ、僕は帰ります。牛見先生もお気をつけて」
「あぁ」
僕は踵を返して、歩を進めた。
私は授業が始まる直前、体調不良を理由に保健室で休むことにした。
「大丈夫?」
保健室の先生が心配して、私をベッドに寝かせてくれた。
「すみません」
「少しの間、保健室を出ているけど、すぐに戻るから」
私は頷いた。ベッドの周りをカーテンで囲い、保健室の先生は出ていった。私以外、誰もいない。
自然とため息が出た。保健室に来たのは、次の授業を牛見先生が担当するからだった。朝のホームルームでは気にしないよう過ごしたが、カオルの言ったことがどう思われたか気になって授業を抜け出してしまった。
昨日、カオルは牛見先生に会った。それを知った時、私は家で問い詰めずにはいられなかった。
「どうして先生に声を掛けたの?」
「見掛けたからさ。僕がかおりじゃないと気付いた時の反応も見てみたかったし」
カオルはあっけらかんとしていた。
「でも、彼女いるかなんて……」
「いいじゃない。もし、彼女がいたら、その人は休日に彼氏が仕事していて、会えなくて寂しくなっているんじゃないかって思ったんだよ」
「何よ、それ」
「教師は大変だってことだ」
「カオルはいきなり先生のプライベートに踏み込んだんだよ。先生、変な風に思ったかもしれない」
「気にしすぎだよ。……だいたい、かおりがいけないんだからね」
「えっ?」
「今までずっと、かおりのそばにいたのは僕なのに」
その言葉が重くのしかかってきた。そして低く呟いたカオルの瞳に私は気圧されて、怖くなった。
ガラガラと保健室の扉が開く音で、私ははっとした。
「乾さん? 体調はどう?」
そう言いながら、保健室の先生はカーテンを開けた。
「乾、大丈夫か?」
保健室の先生の後ろには牛見先生が立っていた。
「先生!? どうして」
「授業が終わったから来たんだ。まだ体調悪いなら、家まで送ろう」
「えっ、でも授業は……」
「今日はこれで終わりだ」
「保護者の方に迎えに来てもらった方がいいんじゃないですか?」
保健室の先生がそう言った。
「乾の保護者は祖父母の方になるんです。来ていただくより、こちらで送った方がいいでしょう」
「そうですか。それじゃあ、乾さん、今日はこれでもう帰りなさい。家でゆっくり休んで」
まさか、牛見先生に送ってもらうことになるなんて。話は進んでしまい、大丈夫だと言っても聞いてもらえそうになかった。荷物をまとめてからビルの隣の駐車場に移動し、先生のシルバーの車に乗った。私は新車によくある特有の匂いが苦手なのだが、その匂いはしなかった。でも、助手席に座って、少し緊張してきた。
「乾の家に電話したけど、出なかったよ。家の鍵、持ってるか?」
「はい。たぶん、買い物に行っているんだと思います」
「そうか」
「先生、車で通勤しているんですか?」
他愛のないことを話せば緊張が和らぐかと思って、尋ねてみた。
「そうだよ」
先生はエンジンをかけて、アクセルを踏んだ。
「電車じゃないんですね」
「電車を使うのは、もう一つのキャンパスに用があるとき使うくらいかな」
そうか、だからカオルと会ってしまったんだ。昨日は電車を使ったから。
「そういえば、昨日、カオルくんに会ったよ」
どきりとした。先生から目をそらす。
「はい。カオルから聞きました。すみません、カオルが遠慮もなく変なこと訊いたみたいで」
「いや、平気だよ。それよりも、本当に似ているんだな。双子なら当然なんだろうけど、びっくりしたよ。初めに会ったとき、乾かと思って話しちゃったからな」
信号が赤に変わり、先生は車を停める。すぐそばの公園で泣いている男の子がいるのが見えた。傍らには母親らしき女性がいる。転んだのだろうか。
乾が窓の外を気にしているように見えた。
「どうした?」
少し間があってから、乾が答えた。
「涙って綺麗ですよね」
急に何の話だろうと思い、乾の視線の先を追う。
「あぁ、子供が泣いているのか」
「先生は綺麗だと思いませんか?」
「うーん、実際に泣かれたら、綺麗だとか思うよりも困っちゃうだろうな」
乾は子供を食い入るように見つめている。
「涙も、それを溜めた瞳も綺麗ですよ。……どうしたらもっと泣いてくれるかな」
俺は思わず乾を凝視した。乾の口元に笑みが広がった。
「そしたらきっと、もっと美しいのに。僕はその方が好き」
「乾?」
俺は乾の肩をつかんでこっちを向かせた。それを驚くわけでもなく、乾は笑っている。
「先生、青ですよ」
乾は正面を指した。信号が青に変わっていると気付いた時、後ろから車のクラクションが聞こえた。
「あぁ、悪い」
ハンドルを握り、アクセルを踏む。
「家に着くまで少し休みます」
俺は次の交差点で速度を落とし、左に曲がる。そのタイミングで乾を盗み見ると、彼女は眠っているようだった。
乾の家の前に着くと、車を停めて彼女を起こした。
「着いたぞ」
乾は俺の声にぱっと起きる。
「あっ、ありがとうございます」
乾は俺に頭を下げ、シートベルトを外し、鞄を持って車から降りた。家の庭にお婆さんがいるのが見え、俺もエンジンを切って降車する。恐らく、乾の祖母だろう。
「かおり? どうしたの。いつもより早いわね」
「早退したの」
そう言って俺が一声かける前に、乾は足早に家の中へ入ってしまった。俺は乾の祖母に近付いた。
「乾かおりさんの担任の牛見といいます。今日は乾さんが体調不良ということで、家まで送らせていただきました」
「まぁ、すみません、お手間をかけさせてしまって。ありがとうございます」
「……あの、つかぬ事を伺いますが」
俺は気になったことを訊いてみることにした。
「かおりさんの弟のカオルくんは、今どちらに?」
乾の祖母はきょとんとした顔で俺を見た。
「カオル? かおりに弟なんていませんよ」
俺は耳を疑った。
「うちの孫はかおり一人だけです」
私は急いで先生から離れた。花に水やりをしているお祖母ちゃんの前を通り過ぎ、自分の部屋に向かう。気持ちを落ち着かせようと深呼吸する。
「一体、何をしていたの?」
男の子の姿を見てから先生に起こされるまでの間、私には何の記憶もなかった。本当に寝ていただけなのか……。
違う、カオルの仕業だ。
「別に気にすることないよ。たいしたことじゃない」
私の不安とは裏腹に、鏡に映るカオルはけろっとしている。
「何よ、それ。何かしたのね! 絶対、先生に変な風に思われた」
「いいじゃん。かおりには僕がいるよ」
「私はもう、嫌われたくないの!」
私が叫ぶと、カオルは黙った。
うちの学校に転入するまでの、乾の生い立ちを彼女の祖母から聞いた。俺は、最初に考えたものとは別の可能性が浮かんだ。
「お大事になさって下さい」
乾の祖母にそう告げて自分の車に乗り込むと、スマートフォンを操作した。
「もしもし、姉さん?」
「浩之? 珍しいね、電話してくるなんて。どうかした?」
「ちょっと姉さんに訊きたいことがあって」
俺は姉さんとの電話を済ませると、車のエンジンをかけて学校に戻った。
部屋の時計を見ると、もうすぐ四時になりそうだった。窓の外を見ると、曇り空が広がっていて、いつもより少し暗い。
「そろそろ行った方がいいか」
小さい鞄に必要なものを入れ、リビングにいる祖母には特に声も掛けずに家を出た。昨日と今日で学校を休んで家にこもりきりだったから、ようやく外の空気を吸えた。
やることを早く済ませようと学校へ足を運ぶ。この空じゃ、帰りは雨かもしれない。どうせなら、嵐になってくれればいいのに。
きっと、その方が美しい。
今日は天気が良くなさそうだ。天気予報では、雨のことは言っていなかったけれど、窓を開けると雨独特の匂いがした。今にも降り出しそうな気配がしている。
とりあえず、生徒達は全員帰った。俺も早めに帰ることにしよう。
「先生」
振り返ると、いつの間にか教室の入り口に乾が立っていた。
「乾!? どうしたんだ、体調は大丈夫なのか?」
「はい。おかげさまで」
そう言って笑った乾に、俺は自然と警戒心が湧いた。
「……本当に乾かおりか?」
「僕は、カオルですよ。牛見先生」
乾カオルは教室に入ってくる。
「どうして、君が?」
「牛見先生のことだから、たぶんまだ学校にいるんじゃないかと思いまして。まだ帰らないんですね」
「これから帰るところだよ。俺に何か用かい?」
彼は持っていた鞄から、何かを取り出した。よく見るとそれはカッターだった。
嫌な予感がした。
「かおりがね、もう嫌われたくないからって、僕の言うことを聞かないんだ。今までずっと僕がかおりのそばにいたのに。これからだって、そうなのに」
「何をする気だ?」
俺はなるべくカオルと距離を取ろうと、じりじりと移動する。
「かおりのために、僕が出来ることをしようと思うんですよ」
「出来ることって?」
「壊れる様は美しいからね。きっとそれを見せたら、かおりも喜んでくれるんじゃないかなって」
カオルは俺に向かってきた。彼が振り下ろしてきたカッターをとっさに避ける。
「それに、嫌われるかどうかなんて、もうかおりは気にしなくて済む!」
俺は下から上に向かって振り上げてきた彼の腕をつかんだ。いや、正確には乾かおりの腕を、だ。
「こんなことやめろ。これで乾が喜ぶと本気で思っているのか? 乾の手を汚すことになるのに」
俺が抵抗しながらそう言うと、カオルの笑みが消えた。
「へぇ、先生、気付いてたんだ」
その直後、俺はカオルに腹を蹴られた。俺の力が緩んだ隙に、彼はつかんでいた俺の手を振りほどく。俺は腹を抑えながら後退する。背中が壁に当たった。これはまずい。
「先生はどこまで知っているの?」
カオルは無表情で俺を見ていた。
「乾かおりは二重人格。小学生の時に両親を亡くした。さらにクラスメイトからいじめを受けていたが、その時の担任には見て見ぬふりをされた。苦しさ、寂しさ、孤独。乾のそういった感情や境遇から、君が生まれたんじゃないのか?」
すると、カオルは突如、笑い声を上げた。
「いやぁ、びっくりだね。そうだよ、先生の言う通り。僕は、寂しさに押しつぶされそうだったかおりの中に生まれた、もう一つの人格だ。僕が生まれたことで、かおりは寂しさから解放された。僕はかおりを救ったんだ。つねに一緒にいるからね」
「おかしいと思ったんだ。初めて会った時に君は、俺と会ったことがないはずなのに、声を掛けてきた。俺の姿を知っているはずがないんだ。本来なら」
「じゃあ、その時に怪しいって思ったの?」
「いや、引っ掛かりは憶えたけど、深くは考えていなかった。車に乗ったのも、てっきり弟のカオルくんが姉のかおりと入れ替わって登校していたためかと考えたよ。身体的にね。でも実際は」
「意識的に入れ替わっていた、でしょ。まぁ、僕が表に出てきたのは公園で泣いていた男の子を見た直後だけどね。今までも、授業はかおりがちゃんと受けていたよ。……しかし、まさか人格のことを指摘されるとは思わなかった」
一歩ずつカオルが近付いてくる。冷や汗が流れる。
「牛見先生をこのままにはしておけないよ」
カオルが迫ってくるのと同時に、俺はそばにあった机や椅子を倒した。本当だったら椅子を思い切り投げつけたいところだが、乾かおりの身体を傷つけるわけにもいかない。
通せんぼのつもりだったが、俺が教室の扉に辿りつく前にカオルは障害を潜り抜けてきた。俺は、カオルが振りかざしてきたカッターを持つ腕をつかみ、もう片方の腕も抑える。もみ合いになっているうちに、足をすくわれて倒れ込む。
「うっ!」
その瞬間に、俺はカオルに腕を切られた。痛みをこらえ、俺に馬乗りになっているカオルの中の乾かおりに向かって叫んだ。
「乾! 乾かおり! 自分の身体を好き勝手に使われて、それでいいのかっ!」
「うるさいよ。先生、あんまり余計なこと……」
「君に言っているんじゃない。俺は乾かおりに言っているんだ。乾、これはお前が本当に望んだことなのか! 違うだろう!」
カオルは今までに見たことのない怒りの形相で、カッターを俺に突き刺そうとする。俺はその手首を捕まえ、必死で押し戻そうとした。
その間も乾に届くよう、俺は叫び続けた。
「乾! お前は、本当は何を望んでいるんだ! どうしたいんだ! 先生に教えてくれ!」
その途端、カッターを持つ腕の力が鈍くなったのを感じ、すぐさまカッターを奪い取って遠くに飛ばした。
「カオル」
乾の口から出た名だった。
「もうやめて」
「かおり、こいつは僕達のこと知っているんだよ?」
二つの人格の言葉が、一人の人間の口でやり取りされる様は、異様だった。
「それでも、こんなことしたくない。私は望んでない」
乾の腕の力が完全になくなる。乾の目に涙があふれていた。
「……そっか。ごめん、かおり」
乾は俺に倒れてきた。
「おい、乾!?」
乾の肩をつかんでゆすったが、反応はなかった。俺は乾の身体をどかし、起き上がる。乾を伺うと、気を失っているようだった。俺は急いで救急車を呼んだ。
泣いていたのは、どちらだったのだろうか。
小学四年生のときの冬。
年末に、両親と共に祖父母の家に行った。そこで新年を迎え、帰る途中で事故に遭った。雪が降った後だったから、路面が凍結していたんだろう。我が家の車はスノウタイヤだったけど、衝突してきた車はそうではなかったらしい。両親は死に、私だけが生き残った。
祖父母は私を引き取ってくれた。祖父母もショックだったんだろうけど、私が一ヶ月もふさぎ込んでいたから、努めて明るく接してくれていた。
小学五年生に上がる際に、私は祖父母の家から通いやすい近くの公立の学校に転校した。しかし、私はなかなか馴染めず、いじめの対象になってしまった。両親がいなくなり、今までの友達と別れてしまって寂しい気持ちが募っていたけれど、それが周囲に暗い印象を与えていたのかもしれない。
私は担任にこっそり相談してみたが、その場で慰められただけで、解決に向けて具体的に何かをするわけでもなかった。これからも続いていくのかと考えると、うつになりそうだったが、それを救ってくれたのはカオルだった。
「一人で寂しいの? 僕がそばにいてあげようか」
このときから、カオルは私の弟になった。戸惑ったけれど、カオルは私の全てを受け止めてくれて、ずっとそばにいてくれた。カオルがいたからこそ、一年間、耐え忍ぶことができた。
六年生に上がるときや、中学に入学するときは初めにカオルが表に出て、友達を作ってくれた。それから私が出てくると印象が違うとか、性格が変わったみたいとか言われたこともあった。でも、その後の学校生活は普通に過ごせたし、カオルが作ってくれた友達とも仲良くできた。
高校に入学したときは、私が自分で友達を作った。でも、一人でいたとき、カオルと話しているのをクラスメイトに聞かれてしまった。その後は、独り言の多い変わり者として避けられるようになり、しだいに友達も離れてしまった。さらに、言ってもいない悪口を私が言っていたという、でたらめな噂が友達の間で流れて誰も信用できなくなった。
ここには私の居場所がないと感じて、寂しさに泣きそうになった。そんなとき、そばにいてくれるカオルが転校してみたらと提案してくれた。カオルの勧めに従って、私は祖父母にお願いし、通学コースのある通信制の学校に転校することになった。
「私、今までカオルがいたからやってこられたの。一人じゃないって思えた。カオルがいなかったら、自分がどうなっていたかわからない。たくさん、助けられたよ。でも、もうカオルには頼らない。自分の周りにいる色んな人と、自分自身で向き合っていくよ」
「それが怖いんじゃないの?」
「うん。でも、これからはそうしていきたい。一人でも頑張っていきたいの」
カオルは寂しそうに笑った。
「そう……。それじゃあ、僕はもう必要ないんだね」
私は頷いた。
「成長したね、かおり」
カオルにそんなこと言われるとは思わなかったから、驚いた。それから、カオルの意識が少しずつ小さくなっているのを感じた。
「カオル?」
「かおり、僕を壊してくれてありがとう」
私はカオルの言葉の意味を悟った。
「どうして感謝なんてするの?」
「だって、壊れる瞬間が一番美しいからね」
その言葉を最後に、カオルの意識が私の中から消えた。呼びかけてみても、何の反応もなかった。
「ずっと、そばにいてくれてありがとう」
私は、もういないカオルに向けて呟いた。
目が覚めると、見覚えのない白い天井が視界に入った。
「乾?」
頭を右に少し傾けると、牛見先生がいた。
「大丈夫か?」
先生は心配そうに私を覗き込んできた。
「はい。ここ、病院ですか?」
「そうだよ。今、保護者の方がここに向かっている」
牛見先生の左腕に包帯が巻かれていた。罪悪感が沸き上がる。
私は上体を起こした。先生はそんな私を見て慌てた。
「あまり無理するなよ」
「先生、ごめんなさい」
先生に向けて頭を下げた。
「カオルのこと、何て言ったらいいか……。ケガもさせてしまって」
「乾、顔を上げて」
言われたとおりにすると、先生は微笑んでいた。
「俺は平気。この包帯は大げさなんだよ。傷は浅かったし、問題ない」
先生が私を気遣ってくれているのがわかった。涙腺が緩みそうになったけど、ここで泣いたら先生は困ってしまう。だから私は我慢して、気になったことを訊いた。
「先生は、私とカオルが双子の姉弟じゃないって確信したのはいつですか?」
「俺の姉は心理カウンセラーでさ。大学院まで心理学を学んできて、いまだに大学の教授と繋がりがあるから、ちょっと色々訊いてみたんだよ。それで、乾はもしかしたらって思ったんだ。弟がいるっていうのが嘘だったとしても、その嘘を吐く理由も浮かばなかったからね」
コンコンと病室の扉がノックされ、開いた。おじいちゃんとおばあちゃんだった。
「かおり! あぁ、よかった。倒れたって聞いたから心配で」
「ごめん」
お祖母ちゃんは私を抱きしめてくれた。お祖父ちゃんは、ほっと安堵したようだった。二人にはたくさん心配をかけてしまっている。
お祖母ちゃんの肩越しから、窓の外の空が見えた。消えかかっている美しい虹が空に架かっていた。