
蒼月書店の奇々怪々Ⅴ ーまやかしの畏怖ー
私のグレーの毛並みを撫でていた手が止まった。手の持ち主を見上げると、眉間に皺を寄せた端正な顔の男が店内から外を睨んでいる。あまり見ない表情だ。
「どうした?」
今日の翠は栗色の猫っ毛な髪をした男になっており、姿によって話し方も多少変化する。
しかし、唯一変わらない翠色の瞳の眼光が鋭くなっている。
「負の気配を感じるんだ」
「近いのか?」
翠は私に視線を向けて頷いた。
「でも、場所がつかめない」
「お前がわからないなんて、珍しい。そいつ、うまく隠れているな」
「この気配、覚えがある。もう少し、周りを探った方がよさそうだ。今日は早めに閉店を・・・・・・」
翠の言葉が途切れた。何かに気付いた様子で、扉の方を向いた。
「近付いてきている」
「ん? ここにか?」
「そのようだ」
私は翠の視線の先を追う。今回はいつも以上に、厄介なことに巻き込まれそうな気がした。
普段は家で勉強をするけど、ずっとそうしていると息が詰まりそうになる。特に今日は地元で二日にわたって祭りが行なわれるため、神輿を担ぐ人達の掛け声や人々の賑わいが外から聞こえてきて、気が散りやすい。明日、友達と祭りに行く分、今日はしっかりやっておきたいし、気分を変えたくて図書館を利用している。
図書館が閉館する十分前に私物をリュックに入れ、僕は席を立った。足早に出入り口へ向かう。
「ん?」
視界の端で何かが光ったような気がした。視線を動かすと、リサイクル本が置かれたブックトラックがある。図書館での役目を終えた、自由に持ち帰ることの出来る本が並んでいる。
いつもなら素通りするところだけど、その一番下の段の角にある一冊のハードカバーの本が妙に気になった。背表紙には何も記載がない。僕はそれに手を伸ばしてトラックから引き抜き、ワインレッドの表紙を確認する。
『四つの感情・短編集』
喜怒哀楽のことだろうか。パラパラと捲ってみたけど、たしかに短編集のようで、物語が四章に分かれている。
汚れや破損もなく綺麗だし、短編なら時間をかけずに読めそうだ。
僕はその本をリュックにしまい、図書館を出た。家はすぐ近くだけど、目の前を通り過ぎて十字路を左折すると、本屋があった。いつの間にか出来ていたようで、気になっていた。
古民家風のそれに近付き、『蒼月書店』の立て看板を確認する。軒先には鈴蘭のような小さな白い花を咲かせた植物が植わっていた。
どうやら、飲み物をオーダーして二階で本を読めるらしい。今日はその時間がないけど、本屋をチェックすべく、僕は本屋の扉を開けた。
僕の周囲では様々な死が起こっている。
近所の交差点では交通事故が起こり、電柱に花が手向けられている。
以前、勤めたバイト先の先輩は川に投身自殺したっていうし、僕の叔母は津波に流されて亡くなった。
ニュースでは、交番の警官が殺される事件が報道されている。写真でしか知らない僕の祖父も警官だった。ライフルを持った男に撃たれて、この世にはいない。
漠然と、でも確かに、死に対する恐怖を感じていた。
いちいち数えてないけど、僕は、十階以上はありそうなマンションを見上げた。社会人になったらいつかは、マンションに住むこともあるかもしれない。
でも、高所恐怖症の僕は、このマンションの上の方には到底住めない。就活が始まって、そんなことも考えることが増えた。
そばのバス停には、女の子を抱き上げた父親らしき人がバスを待っていた。僕が就活カバンと買い物袋を手にその後ろを通り過ぎようと近付くとバスが到着し、父親がバスに乗り込もうとする。
「あっ」
僕は女の子が落としたキャラクターのぬいぐるみを拾った。振り返った父親にわたす。
「すみません、ありがとうございます」
僕は軽く会釈した。父親はバスに乗る。
「落とさないように気をつけて」
「んー」
女の子が父親からぬいぐるみを受け取ると、バスの扉が閉まった。
僕も将来、あんな感じになるんだろうか。
アパートに着くと、一階の僕の部屋の扉に寄りかかるようにして立つ彼女に気がついた。
「美鈴?」
僕が驚いて声をかけると、美鈴はうつむいていた顔を上げた。
「孝(こう)くん!」
彼女は、孝志郞である僕を孝くんと呼ぶ。
「どうしたんだ?」
「ごめんね、急に来て。一応、連絡はしたんだけど」
僕はスマホを取り出して確認した。美鈴からの着信履歴が残っていた。
「気がつかなかった、ごめん」
「ううん、いいの。面接だったんでしょ?」
僕が着ているスーツを見て彼女は言った。僕は頷く。
「何かあった?」
「ちょっと、相談したいことがあって・・・・・・」
彼女は僕から視線を外してそう言った。
「わかった。とりあえず、中に入ろう」
僕は部屋の鍵を開けて、彼女を招いた。狭いワンルームだ。買ったものを袋から出していく。
彼女は小さなソファに腰を下ろし、僕の作業が終わるまで待っていた。僕も椅子に座ると、彼女は口を開いた。
「あのね、困ってることがあって。・・・・・・これ」
美鈴はバッグから白い封筒を取り出して、僕に差し出してきた。僕はそれを受け取る。
「見ていいの?」
彼女はコクリと頷いた。中を確認すると、僕は驚愕して、すぐには何も言えなかった。
「ストーカーがいるみたいなの」
大学内で友人と話している様子の美鈴が写ったものと、美鈴のアパートの前で撮られた写真。
さらに便箋が一枚入っており、「今日も美鈴の元気な姿が見られて良かった」と書かれていた。
「最近、帰宅途中で誰かに尾行されているような感覚があったの。気のせいかと思っていたんだけど、それがポストに投函されてて。今日、バイト先の個別塾の前に不審な男がいるって同期の子が話していたから、余計に不安になったの。それで、ここに来た」
ストーカー。自分の彼女がそんなことになっているなんて。
「もっと早く言ってくれても良かったのに」
「孝くん、今は就活で忙しいかなって思ったから、すぐには言えなくて」
あぁ、そうだ。美鈴はこういう子だ。
「僕も最近、会えてなくてごめん。会っていたら、もう少し早く話を聞けていたな」
僕は写真と便箋を封筒にしまった。
「警察に連絡しよう」
「えっ」
美鈴は驚いたのか、声を上げた。
「やっぱり、そうなるの?」
「それはそうだよ。何かあってからじゃ、遅い」
「うん・・・・・・」
僕は美鈴の様子に首を傾げた。
「まだ何かあるのか?」
「何ていうか、警察にお世話になるって大事になることに、戸惑うというか。こんなこと、今まで経験ないし、それに・・・・・・」
美鈴は目を伏せた。
「気になることがあるのか?」
「似ていたの。幼馴染みに」
「幼馴染み? 美鈴の?」
彼女は頷いた。
「中学まで一緒だった。卒業と同時に私のうちが引っ越して、それから会わなくなったんだけど、人づてに投身自殺したって話を聞いて」
僕は目を見開いた。
「だから、そんなはずはないんだけど、バイト先の窓から外を窺ったときに少し見えた顔がなんとなく似ているような気がして」
「それで躊躇っているのか?」
「引っ越し前に、告白されたことがあるの。断った相手だから、なんだか気になって」
「・・・・・・そうか。でも、相手が誰にせよ、この写真にあるように、美鈴のアパートは知られているわけだろ? 知り合いなら普通に声をかければいいのに、そうしないでやっていることはストーカー行為だ。警察には相談した方がいいと思う」
僕はハッキリそう言った。もっと直接的に、美鈴に接触してこないとも限らない。早めに手は打っておくべきだ。
「このままじゃ、不安だろ?」
「・・・・・・うん、そうだね」
「とりあえず、しばらくは僕の部屋にいた方がいい。警察が対応するときは、僕もいるから」
「でも、就活は? 面接はあるの?」
「それは・・・・・・」
明日も面接がある。特に気になっていた企業だ。
「気にしなくていいよ。他にも受けているものはあるし・・・・・・」
「ダメ! 大事な就活だよ。面接があるなら、受けて。私は大丈夫だから」
僕が何か言おうとすると、彼女はかぶりを振った。
「それなら、面接が終わった後で。夕方には帰ってこられるはずだから」
「うん。ありがとう」
不安になっているだろう美鈴をベッドの中で抱きしめて眠ったはずだった。
「ここは?」
知らない通りにぽつんと、僕だけがいた。周囲には誰もいないけど、目の前に青磁色の屋根の小さいメルヘンな店が建っていた。立て看板があり、おすすめのケーキのラインナップが書かれている。
「中に入れ」
急に声が聞こえて、入り口のそばにある白いベンチに視線を移した。そこで寝そべるグレーの猫が僕をじっと見ていた。吸い込まれそうな瑠璃色の瞳をしている。
今の声は、この猫?
いや、そんなわけないと思い直したけど、この店は何故か気になった。一人でメルヘンチックな店に入ることなんて普段ならしないけど、今回は思い切って扉を開けた。
「いらっしゃいませ」
ショーケースの奥にいる女性店員が振り返って、微笑んだ。綺麗な翠色の瞳が印象的で、この店によく似合う可愛らしい女性だ。
ショーケースの中には様々なケーキが並んでいる。美鈴に買っていこうか。
しかし、種類が多くて選べない。
「おすすめはありますか?」
「では、こちらのオペラはいかがでしょう? 当店のイチオシです」
店員は、ショーケースの一番下の段にある横長の細いケーキを指した。チョコレートケーキのようで、金箔が乗っていて高級感がある。美鈴はチョコが好きだし、これがいいかもしれない。
「じゃあ、これとショートケーキをお願いします」
自分の食べる分は王道と決めていた。
店員が用意してくれている間、店内を見渡した。内装は白と茶色で統一しているが、キノコや小人などをモチーフとした雑貨が飾られており、窓の形が丸くてやはりメルヘンだ。
「お待たせしました。どうぞ」
店員はケーキを入れた白い箱を、ショーケースの上に乗せた。
「ありがとうございます。いくらですか?」
僕はポケットから財布を取り出しながら尋ねた。
「そちらのケーキはサービスです」
「えっ?」
聞き間違いかと思った。
「いや、払わないわけには・・・・・・」
「それでは、少し話し相手になって下さい」
笑顔でそう言われてしまった。お客さんが来なくて暇なのだろうか。
「お客様は、当店に来店されるのは初めてですね」
僕は首を縦に振った。
「学生さんですか?」
「そうです」
「この辺りにお住まいで?」
「えっと・・・・・・たぶん、違います」
「たぶん?」
「気付いたら知らない通りに来てしまっていて。そしたら、この店が気になって立ち寄ったんです」
「迷子になってしまったんですね」
そう言われると、恥ずかしい。
「それじゃあ、迷子から抜け出すために、本当のことを思い出さなくてはいけませんね」
本当のこと?
「あなたの家はどこでしょう?」
「僕は・・・・・・」
いつものアパートの一室が思い浮かんだ。
「それは、本当にあなたの家?」
僕が答える前に、店員は質問を重ねてきた。
「どういう意味ですか?」
「本当のあなたは、どういう人? 何をしている人でしょうか?」
僕は目を瞬いた。店員の質問の意図がわからない。
「僕は大学生で、就活生でもあります。高いところが苦手です。一人暮らししてますけど、今は彼女もいます。ケーキを買ったのは、彼女のためでもあります」
「それは今、あなたが認識しているあなた自身ですね。私が訊いているのは、本当のあなたのことです」
すると、店員の瞳が一瞬、光った気がした。その途端、頭痛と共に、脳裏に何かのイメージが浮かんできた。
たくさんの本棚、窓際の座席。
見覚えがあった。
「これは・・・・・・図書館?」
図書館なんて、最近行っていないはずだ。
「そこで、あなたは何を?」
イメージが続く。リュックを背負い、座席を立って出口に向かって・・・・・・。
ワインレッドが思い浮かんだ。
「うわっ」
身体が揺れ、足で踏ん張った。地震かと思ったけど、違った。空間が歪んでいる。
「あぁ、ここまでのようですね」
彼女はため息を吐いた。
何だ、これは? どうなってる?
「この後、何があっても、自身の感情に飲み込まれないように気をつけて」
「えっ?」
「負の感情は、ぎゅっと捕らえてなかなか放してくれない。でも、あなたの心はあなたのもの。支配されないようにね」
そう言うと、店員は掌を僕に向けた。そこから翠色の光があふれてきて、あっという間に僕を包んだ。
ハッと目が覚めると同時に、美鈴の声がした。
「おはよう。朝だよ、孝くん」
カーテンを開けていた美鈴と目が合う。窓から入る光が眩しい。
さっきのは、夢か。
「おはよう」
「ねぇ、冷蔵庫の中のケーキ、昨日買ったの?」
何のことか、とっさにわからなかったけど、夢で買ったケーキが頭に浮かんだ。
「ケーキって?」
「冷蔵庫の中にあるやつ。さっき、ミネラルウォーターを飲もうと思ったら、ショートケーキとチョコレートケーキみたいなのがあったけど、一人で食べる気だったの?」
僕はベッドから起き上がって、冷蔵庫を開けた。ケーキ用の白い箱がある。中を開けると、確かに夢で注文した二個のケーキが入っていた。
実際に、僕は昨日どころか、しばらくケーキを買っていない。
「・・・・・・面接に行く前に、知り合いにもらったんだ。余ったやつだって。すっかり忘れてた」
適当なことを言った。
「そうなの? 生だから、早めに食べちゃわないと」
「食べていいよ」
美鈴は嬉しそうに笑った。
「いいの? ありがとう。じゃあ、後で頂こうかな」
僕は手元のケーキを見下ろした。
あれは、夢だったはずだ。
面接を終え、僕は大学に寄った。企業が大学に近かったので、ついでにエントリーシートを購入するためだ。
大学の売店で購入し、店を出た矢先だった。
「美鈴ちゃんに近付くな」
後ろから低い小さな声が聞こえた。僕が振り返ると、学生が行き交う中で背を向けて足早に去っていく黒いパーカーを着た男がいた。
あいつか!
男は階段の手前の角を右に曲がった。僕は追いかけて角を曲がったが、男の姿はなかった。この廊下にあるいくつかの教室やその先にある階段も確認したけど、結局男を見失ってしまった。
僕は不安を覚えて、スマホを取り出した。美鈴に連絡するが、出ない。
今日の講義は昼過ぎまでで、バイトはないと彼女から聞いていた。もう、帰っている頃だろうか。
僕は急いで大学を出た。バスに乗ってアパートへ向かう途中、美鈴から連絡が来ているのに気付いた。
『宅配便の格好をした怪しい男が来た。インターホンで確認したけど、その場から動かない。警察に通報したけど、怖い』
僕はすぐに返信した。
『もうすぐ、そっちに行く』
いつもなら買い物のために一つ手前のバス停で降りるが、今日はアパートに一番近いバス停に着くと、僕は真っ先に降りて全力で走った。不安が大きくなっていく。
アパートに近付くと、声が聞こえた。美鈴の声だ。敷地に入ると、揉み合う美鈴と男の姿があった。
「美鈴!」
僕が叫ぶと、男がこちらを向いた。その隙に、美鈴は男の手から逃れ、僕の方に駆けてきた。僕は美鈴を自分の後ろにかばい、襲ってきた男の手首をつかんで取っ組み合いになった。
「どうしましたか!」
「あの宅配便の人、ストーカーなんです!」
後ろから声が聞こえた。警察が来てくれたようだ。美鈴の言葉を受けて、目の前の男は僕から離れ、走って逃げた。警察官が一人、追いかける。
「大丈夫ですか?」
別の警察官が僕に声をかけてきた。
「・・・・・・はい」
息を切らしつつ、僕はそう答えた。振り返って、美鈴の無事を確認する。彼女は泣きそうな顔をしていた。
「孝くん」
「ごめん、帰るのが遅くなって」
そう言って、僕は美鈴を抱きしめた。
アパートに向かいながら、次は美鈴がいなくなってしまうんじゃないかという恐れを抱いたが、腕の中の美鈴に心底安堵した。
ストーカー男は逮捕された。その男は、自殺したと思われていた美鈴の幼馴染みであり、僕が辞めたバイト先の先輩でもあった。とはいっても、僕と入れ替わりで先に辞めた人だったから、一日しかシフトが被らず、僕は顔も覚えていなかった。
彼は、美鈴に振られたこと、受験に失敗したことで自殺しようとしたけど死にきれず、ずっと美鈴のことを引きずってここまで来たらしい。
美鈴は僕に連絡した後、扉を執拗にノックされて窓から逃げようと出たら、見つかってしまったそうだ。
とにかく、無事で良かったと思う。
あれから数日が経ち、今日も面接を終えた。アパートへ帰る道すがら、いつものバス停のそばを通る。この前の親子はいなかったが、乗る人と降りる人がそれぞれいた。
アパートが見えてきた。
「すみません、お尋ねしたいことがあるのですが」
声をかけられて、僕は振り返った。僕より年下っぽい男がいた。
「甘利孝志郞さんですか?」
自分の名前を聞かれ、自然と肯定の返事が口から出た。
「やっぱり。女の子のぬいぐるみを拾ってあげてたな」
丁寧だったのに、急に砕けた話し方になって、僕は少し戸惑った。
「どうして、それを?」
「だって、見ていたから。あのバス、いつも利用しているんだ。あんたの顔、見てわかったよ」
そう言うと、男は僕につかみかかってきた。突然のことに僕は声が出ず、鞄と買い物袋を落とす。
「あんたのせいで、兄さんは!」
次の瞬間、顔面の左側に衝撃が来た。痛みが走る。僕はその場に倒れた。
「今度はあんたの番だ。殺してやる」
僕の番?
左頬を抑えながら、上体を起こした。男が何のことを言っているのかわからなかったけど、男の据わっている目を見て僕は怖くなった。
殺される?
自分の死が目の前に迫ってくる恐怖が湧き上がってくる。
「ニャー」
緊迫した空気の中に、気の抜けたような猫の鳴き声がした。男が反射的に振り向いた先を僕は追った。
突如、男は何かに吹き飛ばされるかのように、近くの塀にぶつかって、尻餅をついた。僕が驚いていると、また猫の鳴き声がした。
「また会えましたね。大丈夫?」
僕が視線を移すと、翠色の瞳を捉えた。夢で見たケーキ屋の女性店員がしゃがんで、僕の様子を伺っていた。そばにグレーの猫もいる。
「あなたは・・・・・・」
「本当はもう少し早く助けたかったんですけど、ここはアウェイな場所ですし、力が強くて邪魔が入るので身動きが取りづらくて」
「まぁ、本当に無理だったら、お前と私もここに入ることすら叶わないだろうがな」
グレーの猫が喋った。僕は唖然とした。
「顔の痛みは偽物だから、気にしなくて平気ですよ」
「えっ?」
どうなっているのか、わけがわからないでいると、視界の端で男が身じろぎをした。さっきの様子とはうって変わって、猫を見て「ひっ!」という情けない声を上げた。
グレーの猫は首を傾げた。
「何だ、こいつ?」
「恐らく、動物恐怖症・・・・・・猫が苦手という設定なのでしょう。あなたを連れてきていて良かった」
「ふん」
「えっと、あの・・・・・・これは、どういうことですか? あなたは何なんですか?」
僕は今、起こっている状況についていけなくて、混乱していた。
「私は・・・・・・みどりとでも呼んで下さい。この猫はラピスくん。それから、彼はストーカーの弟です。あなたを襲うという役割を与えられているんですよ」
「役割?」
「はい。あなたから、恐怖を引き出すために」
「それを自分の力の養分にしている。悪趣味だな」
ラピスがぼやいた。みどりさんは立ち上がって、男に振り返る。
「さて、そろそろ終わりにしましょう。彼を連れてここを出ていきます」
その言葉を聞くと、男の顔から怯えが消えた。スッと立ち上がり、赤くなった瞳をみどりさんに向けた。
「ならん」
僕は耳を疑った。男の声は、別人かと思うほど低くなった。
「物語は続き、繰り返される。負のエネルギーは強い。その感情を搾り取るまで、ここから出ることは叶わない」
「それでも、出ていきますよ。私の店の近くで力を使ったのが間違いでしたね」
男の瞳がカッと開き、赤黒いオーラのようなものが彼の身体をまとった。
「勝手に入ってきておいて、そんなことを許すと思うのか」
男の周囲から風が吹き荒れた。それと同時に周りの景色が変わり、建物が全て消えた。
僕は愕然としてキョロキョロと見回していると、僕とみどりさん、ラピスを囲むように炎が上がった。
一体、何が起こっているんだ?
みどりさんの右手に翠色の光が宿った。その手で何かを払いのけるように大きく動かすと、地面から水が噴水のように勢いよく湧き上がり、あっという間に炎を消し去った。
その光景に、男はひるんでいるようだった。
「お前、伏せていろ」
ラピスが僕に言った。
「えっ、どうして・・・・・・?」
「いいから、身体を小さくして、伏せていろ。巻き込まれたくなかったらな」
この状況が理解できていなかったけど、僕は言われるままに、両手で頭を抑えて土下座でもするように小さく丸まった。
「お前は、まさか・・・・・・」
男の声が震えているのがわかったが、伏せているので表情はわからない。
「同じ被害をまた起こさせないためです」
バチバチ! ドォン!
雷でも落ちたような、大きな音が轟いた。僕はビックリして、一瞬、息を止めた。
「もう、いいぞ」
ラピスの声がして、僕は恐る恐る顔を上げた。
景色がさらに変わっていた。夜空に輝く青い三日月と、その光を受けるみどりさんとラピスがいる。
男の姿はどこにもなかった。
「あの人は?」
「大丈夫。もういません。さぁ、帰りましょう」
「帰るって、どこへ?」
アパートはもう、消えてしまっている。
「本当のあなたに」
そう言うと、みどりさんは再びしゃがんで僕の額に手を当てた。
夢の中で、思い浮かんだ場所が脳裏をよぎる。
「そうだ、僕は図書館にいて・・・・・・」
出る前に、一冊手に取った本。
その表紙を思い出した瞬間、身体に電気が走ったような感覚がした。
「あぁ、僕は・・・・・・高校生。受験生だ」
みどりさんが僕の額から手を放した。
「では、行きましょう」
彼女は微笑んで、僕の手を取った。
すると、視界が揺らいで真っ白になり、何も見えなくなった。
最初に認識したのは、翠色の瞳だった。
「おはようございます。お目覚めですね」
栗色の髪の男性が僕の顔を覗き込んでいた。
「えっ、あっ・・・・・・僕は」
「店の前で倒れていたので、ビックリしました。様子を確認したら、眠っているだけのようでしたので、中に運んじゃいました。体調は大丈夫ですか?」
僕は頷いた。辺りを見回す。僕自身は背もたれのある椅子に座らされていた。
「ここって、本屋?」
「はい。蒼月書店といいます。私は店主の翠です」
翠さんに言われて思い出した。僕は図書館を出た後、この本屋に入ろうとした。
しかし、その後の現実の記憶がなかった。覚えているのは夢での体験。感覚的にはとてもリアルだけど、内容は少しファンタジーな夢だった。顔を殴られたときは確かに痛かったし、それに不思議な猫とみどりさんがいた。
目の前のこの人も、翠色の瞳だ。
「少しお待ち下さい」
そう言うと、翠さんはバックヤードに下がっていった。他に客はおらず、本屋は静かなのだけど、外から盆踊りの曲が聞こえる。
翠さんがバックヤードから出てきた。
「よかったら、こちらをどうぞ。アイスコーヒーです。今日も暑いですから」
「えっ、でも」
「気にしないで。サービスです」
「ありがとうございます」
僕は翠さんからアイスコーヒーを受け取り、一口飲んだ。冷たいコーヒーは喉にしみた。
本屋の前で眠っていたと翠さんは言ったけど、どうしてそんなことになったんだろう。
「迷惑を掛けて、すみません」
「いえ。特に問題なさそうでよかった」
翠さんは目を細めて笑った。彼の瞳のせいか、夢の中のみどりさんと重なった。
「・・・・・・何か?」
翠さんは首を傾げた。僕はじっと、彼の顔を見てしまっていた。
「あっ、ごめんなさい。さっきまで変な夢を見ていて、そこに出てきた人がなんとなくあなたに似ていたから」
「そうでしたか」
僕はアイスコーヒーを飲みきると、立ち上がってグラスを翠さんにわたした。
「色々、ありがとうございました。僕、参考書を買っていきます。どこにありますか?」
さすがに、世話になりっぱなしで帰るわけにはいかない。せめて、何か買わなくては。
「あぁ、ここは文芸本などの特定の本しか置いていなくて、参考書はないんです。申し訳ない」
「そうなんですか」
「大変恐縮ですが、そろそろ閉店時間なんです。お祭りも終わる頃ですし、ご家族が心配されるのではないですか」
閉店時間ならこれ以上、長居は良くない。次に来たときに何か買おう。
「そうですね。じゃあ、今日はこれで。また来ます。本当にありがとうございました」
頭を下げて、椅子の傍らに置かれていたリュックを背負った。
「もし、機会があったら、ぜひまた。受験勉強、頑張って下さい」
僕は翠さんに見送られて、本屋を出た。盆踊りの曲がよく聞こえる。スマホを確認すると、今は二十一時前だ。
空を見上げると、三日月が金色に輝いている。
次の来店のときは、小説を買おうか。
「・・・・・・そういえば」
僕はリュックの中を探ったが、リサイクル本の短編集がなかった。入れたはずなんだけど。
「まぁ、いっか」
あれは、なんとなく持っていない方がいい気がした。
家の前に着いて、僕は立ち止まった。翠さんは頑張ってと話していたが。
「受験生だなんて、教えたっけ?」
私はあの人間が出ていくと、カウンターの裏から顔を出した。
「帰ったな」
「もう平気だよ」
私はその場で伸びをしてから、カウンターの上に飛び移る。あの本の中で喋っている姿を見られている以上、ここで姿を晒すわけにはいかなかった。
「で、あの本は?」
「もちろん、回収した」
翠は後ろの棚の引き出しから、青磁色の箱を取り出してカウンターに置いた。同じ色のリボンで結んであり、翠の力が宿っているのが感じられる。
「処分するんじゃなかったのか?」
「そうしようかと思ったんだけど、せっかくなら彼に渡した方が役立ててくれるかと」
「彼?」
そのとき、扉が開いた。見知った顔だった。
「カイル!」
黒髪に白い鱗肌、手足は鉤爪、背には蝶のような羽根。さらに額には角がある特殊な種族。異世界の住人だ。
「おっ、銀露さん! ご無沙汰です」
私の本名を呼んで、カイルは琥珀色の瞳を丸くした。
「居候してるってのは、本当だったんですね」
「じゃあ、お前がこの本を?」
私が箱に視線を移動させると、翠が答えた。
「そう。カイルさんなら、魔力を抽出できるから、それを別のことに利用できるでしょう」
翠はカイルに振り向いた。
「いらっしゃい、カイルさん」
「やぁ、翠さん。今日はお気に入りの姿じゃないんですね」
翠のお気に入りの姿といえば、長身で黒髪の優男だな。
「最近、その姿でいることが多かったから、今日は変えてみたんだ」
カイルは私と同じように、翠の変身の能力を知る数少ない人物だ。
「まさか、また魔人の本が見つかるとは思わなかったですよ」
「また? 以前にもあったのか」
魔人が書き、自身の力を宿したといわれる本。それが入った箱を、翠は見下ろした。
「そうなんだ。カイルさんの世界で、全く同じ内容の本を手にした方がいた。この本は恐れ、悲しみ、怒り、罪悪感の四つの章で成り立っている。今回、高校生の彼が体験したのは一章の『恐れ』だったけど、以前の方は四章の『罪悪感』だった」
「その本を入手したのがオイラの仲間でした。気付いたときには遅くて。物語の中で自殺に追い込まれて、実際にあいつは死にました。罪悪感を手放せなかったんです」
カイルは目を伏せた。
「これ以上、他の者の手に渡らないよう、あのときの本は私が処分した。多くの死者の負の思念が強く本にまとわりついていたので、魔力の抽出は危険だと判断したんだ」
「なるほどな」
「でも、今回はそれがなかったので、大丈夫。一応、浄化も済ませた」
「オイラ達一族は、魔力も霊力も高くないから、抽出できるものがあると助かりますよ」
カイルは翠から青磁色の箱を受け取った。箱に入れたのは抽出するまで、鉤爪で本を傷つけないようにするためだろう。
「魔人は死んだと聞いたことがあるが」
「うん。だけど、彼の魔力が宿った本は残り、負のエネルギーを求めて別の世界へ現れたんでしょう。そして、図書館で高校生の彼が見つけてしまった」
「二冊目だろう? 他にもあるのか?」
「章の数と同じ、全部で四冊。だから、あと二冊がどこかの世界に紛れている可能性がある」
「もし、また発見できたら、処分しないといけないですね」
箱を持つカイルの手に力が入ったらしく、鉤爪が少し箱に食い込んだ。
「ていうか、まだ正式に開店していないのに、よく入ってきたな」
開店していなければ、翠の力で入ることは出来ないはず。
「カイルさんの気配が近付いているのは感じていたから、入店を許したんだ。呼んだのは私だし」
「それじゃあ、もう開店準備するのか? オイラ、せっかくだから何か飲んでいこうかな」
「ぜひ」
そう言う翠の瞳が扉の方を向いて、光った。
今日も翠の力によって、この本屋は様々な世界と繋がり、いろんな奴がやってくる。
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