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蒼月書店の奇々怪々Ⅶ ー虚構の冒険ー

 最近は外に出ることは少ない。単純に気温が下がってきて、寒いのだ。ここは外が暑かろうが、寒かろうが関係なく快適で、翠の力のおかげだ。

 今日も寒い中、客が来店してくる。優男である翠に「いらっしゃいませ」と笑顔で言われて目を奪われた女は、気を取り直した様子でペコッと軽く頭を下げる。頬を少し赤らめたまま奥の棚の方へ一直線だ。

 女が私に気付くことなく前を通り過ぎるとき、私は違和感を抱いた。この女から何か別の気配を感じる。

 私が顔を上げて翠に視線を移すと、彼の視線も女に向けられていた。そして、私を見て頷く。

 やはり、気付いたか。

 私は女に気付かれないように、翠に近付いて小声で尋ねた。

「あれは、以前の件にもあった魔女と関係ありそうか?」

「いや、良くないものではなさそうですね。このまま問題がなければ、見逃してもいいですが・・・・・・」

 そう言って、翠は今日もアイスコーヒーを飲む。毎度同じで飽きないのか。

 女はひと通り陳列棚を見て回ると、一冊の本を手に取った。中をパラパラと捲って確認し、レジへ持ってくる。

 そのとき、女は私に気付いて目を見開く。

「ここの看板猫なんです」

 翠が女にそう告げた。

「かわいいですね。何て名前なんですか?」

「瞳がラピスラズリのような瑠璃色の瞳なので、ラピスと名付けました」

 女はしゃがんで私に手を伸ばしてきた。

 私は女から顔を背け、その手を避けるようにカウンター横にあった椅子の上へ移動した。大抵の人間は、私を見ると撫で回そうとしてくる。

「すみません。あまり愛想のない子で」

 翠が弁明した。

 別に、人間相手に愛想良くする必要などない。

「いえ、猫は気まぐれな子が多いですし、もしかしたら初めて会う人だから、警戒しているのかも」

 女は立ち上がって、カバンから財布を取り出す。

 私は何かの気配をより一層強く感じた。

 女が会計を済ませて財布をしまうと、翠が尋ねた。

「失礼ですが、何か本をお持ちですか?」

 女は頷いた。

「古い漫画です。古書店で見つけたので、購入したんです。あっ、ここの本を万引きしたわけじゃないですよ!」

 そう言って、女はカバンから漫画とレシートを取り出して翠に見せた。

「あぁ、すみません。万引きを疑ったわけじゃないんです。お持ちのカバンを開けられたときに見えた本が、この画集の絵と似ているなと気になりまして」

 私はカウンターへ上がった。表紙の絵を一瞥すると、どうやらファンタジーな画集のようだ。

「この画集を出している漫画家さんの作品が好きなんですけど、その人は昔、この古い漫画を描かれていた方のアシスタントをしていたみたいで」

「そうだったんですね。見せて下さり、ありがとうございます」

 私は古い漫画をじっと観察した。気配はこの本から感じる。

 女はそれと画集をどちらもしまうと、出口へ向かう。

「まだ出たくない」

 私はイカ耳になった。今、たしかに見知らぬ声がした。

 だが、女はかまわずに歩いていく。聞こえていないようだ。

「あれは・・・・・・!」

 翠が素早くカウンターから出たが、女は店の扉に手を伸ばしかけたところで、その場に崩れるように倒れた。

 女のカバンから強い霊力が漏れ出ている。

「お客様!」

 翠は女の様子を確認した。私もそばへ駆け寄る。

「大丈夫なのか?」

「・・・・・・えぇ、身体の方は。彼女の魂を連れていったみたいですね」

 翠は女を抱き上げて椅子まで運んだ。腰掛けても、女は目を覚まさない。

 翠は律儀に「失礼します」と言って、女のカバンを開けて漫画本を取り出した。

「声がしていた。まだ出たくない、とか」

「そうですね。ひとまず・・・・・・今回は一緒に行きますか?」

 翠色の瞳を私に向けてきた。前回、私に留守番を頼んだことを気にしているのかもしれない。

「フン。暇つぶしだ」

「では、臨時休業ですね」

 翠はフッと笑った。



「神託により、そなたを此度の勇者とする。仲間と共に魔王退治へ旅に出られよ」

「・・・・・・は?」

 いきなり言われて、混乱した。突然、目の前に知らないおじさんがいて、私にそう言ってきた。周囲を見渡せば、知らない人ばかり。その人達は皆、こっちに注目している。

「そなたと共に魔王退治へ向かう協力者もいる。心配することはない」

 おじさんの視線の先を追うと、四人の男女が片膝をついてそこにいた。

「我が国が誇る霊獣の力を宿す者達だ。お主の助けになるだろう」

 何を言っているんだ、この人は?

 このおじさんは、宝石のついた王冠のようなものを被っている。まるで王様のようだ。

 四人の男女は立ち上がった。黄色いマントを着た筋肉質の男が名乗った。

「俺は京夜。麒麟の力を宿している。よろしくな」

 隣にいた赤いマントの華奢な女性が口を開く。

「私は優那。鳳凰の力を受けているの。一緒に行くね」

 眼鏡を掛けた黒いマントの男が続いた。

「僕は俊。霊亀の力を使える。旅に同行させてもらうよ」

 最後に、青緑のマントを着たポニーテールの女性がサバサバとした様子で言った。

「あたしは小百合。応竜の力であなたを手助けできるわ」

 私は返す言葉がなかった。わけがわからないまま話が進んでいて、ついて行けない。

「魔王に関してはわからないことも多い。先発隊も戻らないままだ。出発する前に一度、賢者に会って話を聞いておくといいだろう」

「賢者?」

 まだ誰かいるのか。

「仲間が賢者の元まで案内してくれるだろう。旅を終え、そなたらの帰還を心待ちにしているぞ」

「さぁ、行こう」

 京夜が私に声をかけてきた。曖昧な返事をして、レッドカーペットの上を歩きつつ、彼らの後についていった。

 周囲にいる人は皆、甲冑を着た兵士。何だろう、これは。



 私はだんだん冷静になってきた。何だか見覚えがある気がして記憶を探ったら、私が持っている漫画のキャラクター達だと気付いた。今までいた場所は、恐らくこの国の王宮だ。

 何故、私はここにいるんだろう。何でこんなことになっているのか。夢なのか?

 わかっているのは、私は今、漫画の主人公になっているということだ。その役割をこなさなくちゃいけないのか。

 私は前を歩く四人を見比べた。

 京夜は麒麟の力を使って拳で戦う人だ。勇猛果敢で、積極的に前へ出る。一方、俊は霊亀の力を操り、銃で戦う遠距離タイプだ。

 優那は鳳凰の力を利用して短剣で戦うスタイルで、素早い攻撃が得意だ。小百合は応竜の力を使い、槍で戦う竜騎士だ。攻撃範囲が広い。

 これが、漫画を読んだときの彼らの印象だ。

 勇者に選ばれた私の武器といえば、扇だ。懐にしまっているこの扇で、風の刃を飛ばすことが出来るはず。

 ただ、こういう物語の主人公が使う武器って剣とか刀のイメージが強いのだけど、それは私の偏見だろうか。

 そんなことを考えているうちに、私達は王宮から外へ出た。京夜が振り返る。

「改めて、よろしく。雨音」

 私は驚愕した。

「私の名前、知っているの?」

「そりゃ、勇者様になった人の名くらい事前に聞いているさ。芳野雨音だろ?」

 私の本名がそのまま主人公の名前になっているのか。

「まずは、王が言っていたように、賢者様に会わなくちゃな」

「そうね。知恵をお借りできるかもしれないわね」

「そうでなくても、挨拶はしておくべきだろう。王様も一目置かれる方だ」

 私は優那に尋ねた。

「賢者様って・・・・・・?」

「この近くの森に住んでいらっしゃるご老人よ。王は賢者様と呼ばれているけど、仙人とも言われている方なの。とても物知りで、猫と一緒に暮らしているわ。魔法の達人よ」

「賢者様のところへ君を連れていくよ。お優しい方だから、難しく考える必要はない」

 たしかに、そんなキャラはいたような気がする。

 しかし、うろ覚えで姿まではハッキリ思い出せなかった。


 森の中を入ってすぐに、木の丸太を積み上げていったような、ぽつんと建つ一軒の質素な平屋を見つけた。煙突からは煙が出ている。扉の前には、グレーの毛並みの猫が座ってこちらを見つめていた。綺麗な瑠璃色の瞳をしている。

 まるで、待っていたかのようだ。

「賢者様はいらっしゃるか? 勇者様をお連れしたんだ。魔王退治へ行く前に、お目にかかりたいのだが」

 京夜が猫に向かって喋り出した。突然、何を言い出すのかと思ったら、猫の口が動いた。

「ようやく来たか。勇者が選ばれたことは知っている。賢者は中だ」

 私は驚愕して言葉を失ったが、これは漫画の世界であることを改めて思い出した。何でもありの世界なんだ。

 でも、こんな猫、いたっけ?

 猫が踵を返すと、家の扉が開いた。京夜達がぞろぞろと続いていくので、私も彼らについていった。

 中も変わらず質素だが、火が燃える暖炉の前の椅子に腰掛けている長い白髪の老人がいた。立派な白髭と翠色の瞳。着ている白いローブの胸元には、蒼い三日月の紋章があった。

 まさに、賢者や仙人といった感じの風体だ。

「来ると思っていた」

 低く渋い声で、賢者は言った。

 猫は賢者の足元で丸まっている。

「賢者様、お久しぶりでございます。我ら、王命の下、魔王退治に行って参ります。共に行く勇者は彼女です」

 私は京夜に紹介され、慌てて賢者に一礼した。

「えっと、勇者の芳野雨音です。魔王に関して、何かご存じのことがあれば、伺いたいのですが・・・・・・」

 いいですかと言い終わる前に、賢者は手で制してきた。

「あぁ、わかっている。儂は翠。もう聞いているかもしれんが、周囲から賢者だの、仙人だのと呼ばれている。それから、この猫はラピス。儂の相棒じゃ。

 魔王のことだが、儂から言えるのは、奴の配下にいる者のことだ」

「ご存じなのですか!」

 小百合が興奮気味に訊いた。

 賢者は頷く。

「三人いる。剣士、忍者、弓使いだ。勇者が定まる前に魔王城へ向かった先発隊は、この三人にやられてしまったんじゃろう」

「やはり、そうなのですか・・・・・・」

 優那が気落ちした声で話した。

「魔王の手下だ。油断は出来ない。十人の先発隊を三人で迎え撃ったのなら、相当な実力だ」

 沈痛な面持ちで俊は呟いた。

「儂とラピスも同行しよう」

「えっ!」

 私達五人は同じ反応をしてしまった。

「手練れ揃いだ。儂の魔法もそなたらの役に立つじゃろう。魔王城はこの森を抜けた先にある」

「一緒に来ていただけるなんて、願ってもないことです!」

 京夜は表情に嬉しさがにじみ出ていた。

「全てを終わらせて、無事に帰るぞ。儂もおるから、不安にならなくてよい」

 翠は私に向けて微笑んだ。穏やかな翠色の瞳に、何故か安心感を覚えた。


 私達は森の中を歩いていく。時々、魔物と遭遇するが、霊獣の力を操る四人と魔法を扱える賢者がいれば、怖いものはなしだ。私でさえ、慣れない武器で風の刃を飛ばしていったら倒すことが出来た。

 ただ、翠は火や水、雷などの自然魔法で敵を一掃していて、一人だけ別格だった。さすが賢者と云われるだけのことはある。

 でも、こんなに強かったっけ?

「あいつが戦っているのを見られるなんてな」

 そうぼやくラピスだけが、少し離れたところで戦闘を見物していた。

 森を抜けると、大きな門が見えた。その先に城がある。

 あそこが魔王城・・・・・・!

「この門は力尽くで開けるしかないか」

 京夜が門に近付いていくと、門はひとりでに開いた。

「これは・・・・・・」

「僕達を招いているのか。よほど自信があるのか」

「倒せるものなら倒してみろってことかしらね」

「配下の三人もいるはずよ。慎重に行きましょう」

 私達は歩を進めた。城の扉を京夜が開ける。みんなに続いて私も恐る恐る城へ入った。

 目の前には紫の絨毯を敷いた階段があり、左右どちらにも廊下が続いている。天井が高く、窓から差し込む日の光の傾きから、夕方になっていることがわかる。

「きっと上にいるはずだ」

「城の中も魔物がいるかもしれん。気をつけるのじゃぞ」

 私達は遭遇する魔物を倒し、城の仕掛けを解き、上の階へと進んでいく。

「あいつは・・・・・・!」

「あっ、おい!」

 小百合が何かに気付いて、走っていく。彼女に追いつくと、私は息を呑んだ。

 彼女の傍らには甲冑を着た兵士が倒れていた。周囲にも同じような人が数人倒れている。

「先発隊の兵士だ。みんな、やられている」

「彼らのためにも、俺達が倒さないと」

「そうだな。先へ進もう」

 最上階と思われるところまで来たとき、俊が立ち止まった。

「おかしい」

「何が?」

「魔物は現れるが、配下の三人が現れないし、城の中が静かすぎる」

 俊は腕を組んだ。

「どこかから私達をこっそり伺っているのかしら」

 小百合が警戒するように周囲に目を配る。

「問題ない。襲ってきたら、返り討ちにするだけだ」

 京夜はぎゅっと、拳を握り締める。

「奥の間があるわ。あそこにいるのかも」

 優那が奥にある扉を指した。

 緊張感が漂う中で、賢者が私に振り向いた。

「雨音、大丈夫か?」

「は、はい。なんとか」

「呼吸が乱れておるな。そなたは一人ではない。案ずることはないのだぞ」

 私は頷いた。最初はどうなることかと思ったが、これだけ仲間がいればきっと大丈夫だ。これは漫画の話なのだから、彼らの足を引っ張らないようにすれば、ちゃんと魔王を倒す物語になるはずだ。

「気負わなくても、翠がお前を守る。心配するな」

 ラピスがツンとした表情で言った。可愛げがないけど、気遣ってくれているのがわかる。

 私達は奥の間の扉を開けた。

「えっ?」

 私達は部屋の中の光景を見て、愕然とした。玉座で魔王が死んでいた。

「どういうことだ!」

 私達は玉座に駆け寄り、魔王の状態を確認する。頭に矢が刺さり、胸には刺し傷、腹部には斬り傷があった。

「これって・・・・・・」

「やっぱり来たね」

 後ろから声が聞こえて、私は振り返った。床から走る光がこっちに向かってきていた。

 私は驚いてとっさに動けなかった。目の前まで迫ったとき、それは私を囲むシールドによってかき消された。

「結界か」

 剣を片手に、女が鋭い目を向けてきていた。そのそばには、忍(しのび)とおぼしき黒装束を来た男と、弓を手にマントを翻してキザっぽい立ち姿の男。

「霊獣使いだけでなく、優秀な賢者も来るとはな」

「まさか、お前達、魔王を裏切ったのか?」

「そうだ。これからは我らが治める。お前らが寄越した先発隊も早々に片付けた」

 主人公じゃなく、敵の武器が剣なのか。

 そんな場違いな思いが一瞬、私の中で生まれた。

「・・・・・・こんなことになるなんて」

「だが、魔王は死んだとしても、同胞をやったお前達は見逃せない」

 京夜が拳を握りしめ、麒麟の気をまといながら彼女らに向かっていく。それに対して、忍者が女剣士の前に出て迎え撃っていた。

 それを開始として俊は銃を構え、優那は二本の短剣を両手でそれぞれ持った。小百合は槍を手に弓使いが飛ばしてくる魔法の矢をかわしながら、素早く敵へ突っ込んでいく。

 魔物も沸いてきた。私はオロオロしながらも、こっちに来ようとする敵に風の刃を飛ばす。

 それでも、あの四人のように特別な力があるわけでもない私には、目の前の脅威に対処するだけで精一杯で他を気にしている余裕はなかった。

「もう、そこまででよい」

 敵の攻撃を回避できずにいたら、翠の結界で守られた。

「そろそろ終いにしようか」

 他の四人が懸命に戦っている中で、翠はそんなことを言った。

「終いって、敵は強いですよ」

 敵の三人は、互角に渡り合っているように見えた。

「確かに強いようじゃが、これ以上続ける必要はない。十分、遊んだじゃろう」

 最後の言葉の意味がよくわからず、私は首を傾げた。

「これは、物語の展開とは外れているからの」

 そういえば、この漫画のラスボスは一度勇者に倒された魔王が復活した姿だったはず。

 あれ? ていうか、何で。

「物語って、知って・・・・・・?」

 私がこぼすと、賢者はフッと笑い、視線を私から敵へ移した。

「さぁ、儂らは帰らせてもらうよ」

 そう言うと、優那と戦っていた女剣士がこっちに向けて斬撃を飛ばしてきた。

「ひっ!」

 私は情けない声が出てしまったが、敵の攻撃は結界によって消えた。

「寂しいことを言わないでほしいな。せっかく面白い展開になっているのに」

 女剣士がそう話すと、その場が一気に静かになった。敵だけでなく、仲間達も戦いの手を止めて、私達に視線を向けていた。

「イタズラが過ぎるぞ。こんな子まで巻き込んで」

「だって、店を出ようとするからさ。居心地の良い場所にいるのに」

「それは、そなたにとってじゃろう」

「僕だけじゃなくて、あの店はいろんな奴が気に入ると思うけどな。現に、そこにいる猫もそうじゃないのか?」

「あぁ。お前の気持ちはわからんでもない」

 私は目の前で交わされる話についていけなかった。何故か、女剣士の一人称が変化しているし。

 そもそも、何の話をしているの?

「あの店は君の力によるものでしょう? だから惹かれるんだ。全ては、君に帰還する。そうでしょう」

「ほう。奴は翠のことをちゃんとわかっているようだな。ただの店主ではないと」

 ラピスはイカ耳に全身の毛を逆立てて、女剣士から目を離さない。

 翠はため息をついた。

「やれやれ、わかっていてここまでやるのか」

「もう少しだけ、遊んでいってよ」

 すると、敵だけでなく、仲間達まで武器を手に私達へ向かってきた。

「えっ、何で!」

 わけがわからずにいたら、足元が眩しくなった。ラピスが銀色に輝いている。

 みんなはそれにひるんでいるようだった。

「いい加減にしろ。あまりしつこいと、こちらは本気で行くぞ」

 唸るように、低い声でラピスは言った。

「へぇ・・・・・・。君もすごい霊力だね」

 女剣士がぼそっと呟いた。

「こらこら、これ以上、物語を荒らさないように。そなたも、それを望んでいるわけではないじゃろう」

 女剣士は落胆した様子でぽつりと言う。

「・・・・・・残念だなぁ」

「そなたとは、またあとで」

 翠は私の肩を抱き寄せた。驚いて見上げると、翠色の瞳とぶつかる。

「帰ろう。そなたの本来の場所へ」

 途端に、強い眠気に襲われた。穏やかで暖かな光に包まれているような感覚だった。



「やっと、帰ってこられたな」

 私は伸びをした。

「でも、展開が早かったですよ。もう少し主人公に試練があってもいいようなものですが、早く自分が登場したかったんでしょうね」

 女は椅子に腰掛けたまま、まだ目覚めていない。

 優男の翠はカウンターに置かれた古い漫画に手をかざした。漫画が光ったと思ったら、何かがボンッと飛び出してきた。

 着物を着た二足で立つ柴犬だった。漫画と同じくらいの大きさの小さい姿だ。

「それが、あなたが得た姿ですか」

「あはは、そうなんです。この漫画の作者が飼っていた犬の姿から、こんな感じに。漫画の中では、女剣士の姿を借りました」

 犬はペコリと頭を下げた。

「すみません、ご迷惑をおかけして。もう少しここにいたくて、持ち主を物語の中へ引っ張りました」

「まぁ、付喪神がやりそうなイタズラではあるな」

「ここでなければ、出来ないイタズラですよ」

 犬もとい付喪神は頭をかいた。

「あれ・・・・・・?」

 女の声がした。目覚めたようだ。

「気分はどうですか?」

 優男に顔を覗かれ、女は慌てた。

「えっ、あ、はい! 大丈夫です! えっと、私・・・・・・」

「扉の前で倒れられたんですよ。救急車を呼ぶべきかと思いましたが、目覚めてよかったです。どこか痛いところもありませんか?」

「平気です。変な夢を見ていたくらいなので、疲れていただけだと思います。ご迷惑をおかけしました」

「いえ、こちらは問題ないですよ」

 翠は漫画を手に取って、女にわたした。

「これ、倒れられたときにカバンから出てきてしまったものです。破損はないですよ」

 女は受け取って、安心したようにホッと息を吐いた。女に付喪神は見えていない。

「ありがとうございます」

 女は椅子から立ち上がって、傍らに置かれていたカバンを手に取った。

「ご自愛下さいね」

「はい。色々とありがとうございました」

 女は漫画をカバンに入れながら、扉へ向かう。

 付喪神は私と翠に一礼すると、姿を消した。顕現している必要はなくなったんだ。

 女は無事に外へ出ていった。

「古いとはいっても、付喪神が宿るほどの年数が経っているとは思えなかったが」

「それを所有してきた人々の想いが強く、たくさん残って生まれたんでしょう」

「人間の思念の強さには驚かされるな。だが、これで一件落着か」

 私は椅子に上がって、丸くなった。

「そうですね。まさか、あなたが一喝してくれるとは思いませんでした」

「私だって、早く出たかったからな」

「本気の銀露を見てみるのも、悪くなかったかもしれませんね」

「茶化す暇があったら、店を再開しなくていいのか」

「わかってますよ」と笑いながら、翠はバックヤードへ下がった。アイスコーヒーを準備するんだろう。

 私はこの心地良い空間で、ひと眠りさせてもらおう。


                              ー了ー

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