無駄だといわれても、私はその先をみていたい。
最近仲のよい同僚とトラブルになった。私が大切だと思っていた業務を、同僚はそれほど大事だと思っていなかった。それゆえのすれ違い。
いわゆる種まきのような業務。成果に繋がらなければ、ただ手間がかかるだけの雑用なのかもしれない。
同僚から「その業務だけやっているわけではないから、そんなに力を入れる必要はないよ」とはっきり言われて、なんだか落ち込んでしまった。
同僚にとっては、なるべく手間がかからないことが大切。なるべく簡潔に済ませたいという気持ちも分かる、それも大切なこと。私も頭の片隅では分かっていたからこそ、何も言えなかった。
ひと手間があるからこそ結果に結びつけやすくなるのも事実なわけで、それを手間と捉えるか、下準備と捉えるのかの違い。だけど、実際に届いてほしい人に伝わっている実感もなかったから、急に自信を失ってしまった。
誰かのためと信じていたものが、実はそうではなかったかもしれない。全部ひとりよがりだったのかも...と心がずんっと重くなった。
そんな日々を過ごしているとき「そのままで大丈夫だよ」と、背中を押してもらえる出来事があった。
あるオーディション番組の舞台裏の映像を見ているときのこと。
スキルも経験も年齢もバラバラな練習生たちが、限られた時間で、ダンスと歌を覚えパフォーマンスをする。その練習風景で垣間見えた意識の向け方の違いが、私の職場での状況に重なってみえた。
同じ「今ここ」を見ているのに、自分の目の前にある課題に意識を向けているのか。それとも、もっと先に届けたい相手がいて、その人たちにベストな姿を見せるために、いま何をすべきかに意識を向けているのか。
デビューするためには、より素晴らしい歌やダンスを見せて、自分をアピールしなければいけない。時間も精神的な余裕もない。
それでも、練習を重ねるうちに、練習生たちのスキルも上達して視野が広がって、自分に向いていた意識が「自分を応援してくれているファンに感謝を伝えたい」と次第に外向きに変わっていった。
想いをひとつに披露するパフォーマンスは切実で儚くて、それでいて力強くて、眩しかった。この短期間でここまで成長できるのか。映像に映っていない場所でも、たくさん話し合いや練習を重ねてきたことが感じられた。彼らはそんな苦労があったことを、積極的に話そうとはしないけれど...。
パフォーマンスに求めるものは人それぞれ違うけれど、自分にできるベストを尽くして届けるために表現すること。ひたむきな彼らの想いに触れたことで、私も自分の想いを信じてみたくなった。
目の前のことを見るか、先を見るのか。どちらが良いとか悪いかとかそういう話ではなくて、どこを見るかは選べるし自由だ。でも、私は先を見ていたい。
どうせやるのなら一番相手に届く形でやった方が効果的だということもあるけれど、先をみることは相手を思いやることだから、どんなに無駄だと言われたって私はコツコツと続けていきたい。
自分の仕事の先には、必ず誰かがいる。届けたい相手を想像しながら働くことで、今はまだ見えないけれど、誰かの心をノックできるかもしれないから。