じゅういちがつのじゃず
「JAZZ演奏ってその場の雰囲気で合わせていくのがほとんどなんだって!今流れてるのも即興なのかも!」
生演奏があるレストランで友人が教えてくれた、ドラムやトランペット、ピアノの音が入り交じって会話を邪魔しない程度の音のなかで(あ、今のリズムすきかも)と節々で心がリズムに乗る。
これが全部奏者達の息を合わせながらするというのだから驚きだ、いや、この音のなかで誰が指揮をとるでもなく各々が奏でたい音を勝手に名曲と名を打つのだろうか。食事も会話も演奏も満足に店をでると、都会の街並みは機械的な喧騒と大衆の話し声がまた違う音に乗せてくる。だからあの店では店中で「JAZZ」。なのではないだろうか、カトラリーの金属音、皿が重なる陶器の音、メニューをたたむパタンッの音、全部を紡いで作った空間を「JAZZ」って呼んでいたい。
近い前の日のこと、友人が大舞台で戦っていた、1人しか勝てない戦いはいつだって孤独に苛まれる、和気藹々を履き違えない友人はその不安とも戦っていると思っている、休憩の合間、選手達も各々の休息や歓談を楽しむ、友人は長丁場の着物姿で軋む身体を動かしながら、
「写真!!撮りに行こ!!」と言ってくれた、(休まないの?大丈夫?)心では思ったが、こんなにも前に前に進む友人に「行こう!!」と言葉が出た、僕を頼ってくれたんだ、この想いに報えないで男として生きる価値ないだろ。
歓談も少々に色んな写真を撮った、撮りながらも周りへの気配りを忘れない姿に和の心への慈しみを見た。君の持つ世界観にシャッターを落とす、僕のファインダーは君しか写さない。君が指揮をとるでもなく僕もこの音に乗っていく、こうして、ああして、は最小にしたいことやりたいことにお互いの息を合わせる、着物の擦れる音やシャッターの落ちる音、会場の話し声すら後ろの音。僕らはこの音のなかで息を合わせる。
そうだこれが「JAZZ」。
君の奏は、君の見したい世界観を紡いで、僕のカメラはその世界を切り取る、だから僕らのこの音は、
JAZZの生演奏があるレストランでもなく
都会の喧騒でもなく
待ち行く人々の話し声でもない
写真でもJAZZでも君の世界でもある、
それが全部一つになった作り込んだ品、
「作品」。
撮り終えてまだ終わってない舞台に向かう君は満身創痍もいいところで、足を引きずっているようにも思えた、
(頑張って)
この言葉が残酷にも思えた、平坦で無難でその言葉に角はない、ただ、頑張ってるのをしっている、頑張りすぎてるのが胸を裂く、だから僕は、
黙って見送るしかできなかった。
そんな姿を見てる、
これからも君の奏でる音が、
この慈しみと強さの旋律が誰かの耳に残ればいいな、
僕らのじゃずは11月に始まった。
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