【小説】一人十色 第1章「夢色透明」
吸ったことのない空気。見たことのない空。そして、私の知らない街。どこを見渡しても見覚えのある場所なんて一つもない。あるわけがないし、あってはいけない。わざわざそういう場所を探して引っ越してきたのだ。私は嫌だったけど、周りと上手く馴染めない一人娘を心配した父なりの行動なのだろう。
「彩葉、疲れたかい? もう着くから頑張って起きてるんだぞ」
「大丈夫だよ、お父さんこそ平気? ずっと運転してるけど」
私の質問を聞いて嬉しそうに笑う父。実の娘に気を遣われたことが可笑しかったそうだ。そうやって、少しの間笑ってから、俺は大丈夫だと言って頭を撫でてくれる。
父の言った通り、新しい家はすぐに見えてきた。小さくも大きくもない、どこにでもある一軒家だ。人生初の引っ越しにドキドキしていたが、案外なんでもないんだと嬉しくもがっかりしてしまう。
「荷物は昨日のうちに届いているはずだから、さっさと片付けて今日は早く寝ような」
「そうだね。そういえば、なんでこの家にしたの?」
「ん? いや、これといって理由があるわけじゃないんだが、強いて言うなら屋根だな。かっこいいだろ?」
「屋根。たしかに綺麗だもんね」
そうだなと頷く父。でも、私の言った綺麗という言葉の意味を、父は理解していないだろう。こんな色鮮やかな屋根がわからないなんて、ちょっと可哀想だな。……、それともみんなと同じ世界が見えない私の方が可哀想なのかな?
色が見える。これは生まれつきの病気らしい。どうやら普通の人には、どんなに綺麗なものでも白と黒にしか見えていないらしい。それが普通。私の知らない本当の世界。みんなは、どんな風に見えてるんだろう。
「どうした? 体調でも悪いのか?」
家を見つめながらぼーっとしていた私を見て、心配になったのか父が話しかけてきた。私はなんでもないと答え、早く入ろうと父の手を引いて急かした。
「古いけど綺麗だろ?」
「うん。それに前の家より広いね。そういえば、私の新しい部屋ってどこ?」
「ん? ああ、言ってなかったな。二階の一番奥の部屋だよ。気になるなら見ておいで」
父に言われるがまま二階へと足を運ぶ。いくら綺麗だとはいえ、やはり建物自体はかなり古いらしい。一段上がるごとに、ギィ、ギィと木が擦れるような音が鳴る。前の家も、似たような音だったなぁ。どこの家もそうなのかな。そんなことをぼんやり考えながら最後の一段を登る。さて、私の部屋はどこだろう。
「って、絶対ここだよね。このプレート、前の家から持ってきたんだ」
可愛らしい文字で「いろは」と書かれたプレート。私の部屋にはいつもこのプレートが飾られていた。別に嫌というわけではないけど、私ももう高校生。少しだけ恥ずかしいのだ。
プレートはいつかもっとかっこいいものに変えようと心に誓い、部屋に入る。入ってすぐに気が滅入る。誰だって、この量の段ボールを見れば気が滅入るだろう。
ため息をつきながらベッドに倒れ込む。しばらくの間天井を眺めていると、一階から、父が私を呼ぶ声が聞こえてきた。夜は寿司でも取るか。そんな魅力的な声が聴こえていないと言わんばかりに目を閉じる。瞼の裏側には、真っ黒に染まった世界が広がっていた。
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