創作小説「忘れてしまえ」
「ねえ、じゃんけんしない?」
その言葉は唐突だった。放課後、私たち二人は教室に残っていた。提出期限が迫っている課題を終わらせるためだ。本来なら、帰ってから取り掛かってもなんら問題のないもにだ。問題ないから帰ろうとする私を、彼女は強引に引き止めた。どうやら、家だと集中できないらしい。でも、集中できないと言っておきながら、彼女は一向にペンを握ろうとしない。流石に少し注意した方がいいか。
「家じゃなきゃ、集中できるんじゃなかった?」
「そんなこと一言も言ってませーん。ね、ちょっと遊ぼうよ! いいでしょ?」
呆れた。こんな馬鹿放っておいて、早く帰るべきだった。いや、今から帰っても遅くはない。そう思い、早急に身支度を始める。そんな私を見て流石に彼女も焦ったのか、ペコペコと頭を下げペンを握った。思わずため息が出てしまう。一度片付けたペンとノートをカバンから取り出す。
「10分。とりあえず10分でいいから集中して」
「10分……わかった。10分頑張るからそのあと遊んでね?」
ペンを握ったまま、指で輪っかを作り了承する。自分でも分かっている。10分なんて集中したうちに入らない。最低でも30分は黙って作業してもらわないと……。しかし、10分とはいえ課題をさせることに成功した私は褒められるべきだ。
(いや、誰が褒めてくれるんだよ。てかなんで私はこいつの面倒を見てるんだよ……)
「じゃあタイマーはこっちでセットしとくから」
スマホを取り出しタイマーを10分にセットする。流石の彼女も観念したようで、スマホを恨めしそうに睨みながら課題を始めた。これでようやく自分も課題に専念できそうだ。とはいえ、先程まで騒がしかったせいだろうか、突然の静寂が嫌に耳に刺さる。仕方がないのでイヤホンを取り出し適当な音楽を再生する。これで大丈夫かな。これでやっと課題に集中できる。ペンを握り直し課題と向き合う。
しばらくの間、黙々と作業をしていたが、彼女の手が止まっていることに気が付き、文句を言おうと顔を上げたところで、彼女と目が合った。いつからこちらを見ていたのか、彼女はじっと、私を見つめていた。課題もせずに何をしているのか。私はまた小さくため息をつき、イヤホンを外してから口を開く。
「なに、私の顔になんかついてる?」
「ううん、なんでもないよ。ただ、もうすぐかなと思って」
そう言いながらスマホを指さす。23、22、21ーー。どうやらもう10分経つようだ。それにしても呆れる。タイマーが鳴るまで大人しく課題に集中していればいいのに。この作戦はどうやら失敗だったようだ。次からは何か対策を立てなければ……。あれ、何かがおかしい。その違和感の正体をすぐに理解し、それと同時に思わず声を出してしまう。
「だからなんで私があんたの面倒見なきゃいけないのよ!」
「え、なんの話?!」
驚いて立ち上がる彼女を宥め、再び椅子に座らせる。
「なんだっていいでしょ。それで、ちょっとは進んだわけ?」
返事を聞く前に彼女のノートに目を落とす。白い。いや、正確には等間隔に並ぶ薄い線と、その上をボールペンでなぞった跡がある。顔を上げ、彼女を睨みつける。私が怒っているのを察し、過去に何度も聞いた言い訳を並べ始めた。そして最後に「怒らせちゃってごめんね……」そう小さく呟くのだ。こうなったらもう敵わない。いつもこれで丸め込まれてしまう。
「別に、私の課題が進まなかったわけじゃないから怒ってないよ。でも、誘ったからにはもうちょっと集中した方がいいんじゃない?」
「おっしゃる通りです……。うーん、一人だと集中できるんだけど」
じゃあ誘わなければいいじゃないか。そんな無情な言葉を飲み込み、私にもどこか非があったんじゃないかと考える。そうだ、こうなるとわかっていて誘いに乗ったのがいけないんだ。
「もう今日は帰ろう。課題、終わったら写真送ってあげるから。それでいいでしょ。はぁ、今度何か奢ってよね」
「いやいやいや、それじゃあ私の気が済まないよ! 私にできることがあったらなんでも言って!」
「なんでも、ねぇ……」
彼女の胸元に視線を落とす。別に、同性愛者というわけではないが、最近どうも女性の胸が気になって仕方ない。前々から、一度この大きな胸を揉んでみたいと思っていたのだ。
「ねえ、胸、触ってもいい?」
「もちろんいいけど、私のおっぱいなんて触って楽しいの?」
「いいからほら、後ろ向きなさいよ」
了解! そう言って、大袈裟に体を動かし、くるりと後ろを向いてくれる。体と一緒に揺れる髪からは、ハチミツのようなそんな甘い香りがする。少し息を整え、そっと後ろから手を回す。分かってはいたがやはり柔らかい。そして大きい。
「ちょっと、がっつきすぎじゃない? それになんか、くすぐったいよ」
「あ、ごめん。でももうちょっとだけ……」
胸を触りながら、少し考え込んでしまう。せっかく触れることができたのに、どうして私の心は満たされないのだろうか。
「あぁ、そういうことか」
つい口に出してしまった。私の言葉を聞いて振り返ろうとする彼女の頭を掴む。そのまま全てを忘れてくれと祈りながら頭を撫で回す。
「もー、急に何するの! せっかく可愛くセットしてるのに、ぐちゃぐちゃになっちゃったじゃん!」
「だって急に振り返ろうとするから」
「もう、これでチャラだからね! なんか奢るのは無し。ちょっとトイレで確認してくるから。先に帰らないでよ」
そう言って、鞄を持って教室を出て行ってしまう。しばらくは廊下をパタパタと走る音が聞こえていたが、その音は次第に小さくなり、あっという間に聞こえなくなってしまった。
「……、やわらかかった」
一人になって改めて、先程のことを思い出す。触ってみたいと思った胸。でも満たされなかった心。そして気付いた一つの感情。私は、この感情をどうすればいいのだろうか。
しばらく一人でモジモジしているとまた、廊下をパタパタと走る音が聞こえてきた。どうやら戻ってきてしまったらしい。
「おっまたせー! って、まだ荷物片付けてないじゃん。……、どうかしたの?」
「満たされなかったの」
「へ? なにが?」
私は居ても立っても居られなくなり、教室の入り口で立ち尽くす彼女の方へと足を運び、そのまま手を握る。突然のことに驚いたのか、彼女は微かに肩を震わせた。かと思った直後、優しく手を握り返してくれた。
「あのね、変だって分かってるし、嫌われるかもしれないんだけど、それでも聞いて欲しいことがあるの」
涙が頬を濡らす。その涙はあまりに唐突で、急いで涙を拭き彼女を見る。そこにはいつものように優しく笑う彼女がいた。そんな顔を見て、もっと涙が溢れた。私は彼女が好きだ。だから満たされなかった。ならいっそ、この感情を伝えてしまおう。もう答えは決まっているのだから。
泣きじゃくる私の話を、彼女は何も言わずに聞いてくれた。その顔はいつもと同じ、優しくて綺麗だった。そんな顔を見て私は怖くなってしまった。もしかしたらもうこの顔を見ることはできなくなるのではないだろうか。恐怖と不安で胸が締め付けられる。こんな時、人はどうするのが正解なのだろうか。
「ごめん……」
ぽつりと呟いて、私は走り出してしまった。後ろから彼女の声が聞こえてくる。止まらなきゃ。そう頭で思っても、走り出した足は止まらない。私はなぜ謝ったのだろう。何を謝ったのだろう。何も分からない。この先、私たちはどうなってしまうのだろう。それさえも分からない。
気が付くと私は人気のない公園のベンチに座り込んでいた。寒い。どうやら太陽はすでに沈み切っているようだ。顔を上げる。雲の切れ間から月が顔を出している。その顔がまるで、今の私を嘲笑っているように見えて再び俯いてしまう。いっそこのまま消えてしまえれば、どれほど幸せなことだろうか? どの道、もう後戻りはできない。覚悟を決めたくせに落ち込んでしまうなんて、私はなんて情けない、愚かな人間なんだろう。
私は求め過ぎてしまった。ずっと一緒に居たかった。ただ隣で笑っていたかった。いつからそれだけで満足できなくなってしまったのだろう。頭の中が色々な考えでこんがらがって行く。疑問が疑問を生み、解決できずにドロドロと混ざり合って行く。
「ねえ、こんな所で何してるの?」
遠くから彼女の声が聞こえた気がした。こんな時でも彼女を頼ってしまうのか。認めたくないけど、私はどうしようもないらしい人間らしい。
「ねえってば!」
今度は先ほどよりも大きく、はっきりとした声が聞こえてくる。それも、一度や二度ではなく、何度も何度も復唱するように私の名前を呼んでいる。これはきっと幻聴だ。どうしようもない人間が少しでも救われようとしているのだ。救われる権利なんてないのに。目を開けて周りを見ればこの声も消えるだろう。こんがらがった頭でそんなことを考えていると、急に肩を掴まれて揺さぶられる。驚いて目を開けると、そこには不安げな顔で私を見つめる彼女が立ち尽くしていた。
「やっとこっち見た! もう、心配させないでよ。私の返事も聞かずに教室を飛び出しちゃうんだから、すっごい心配したんだよ?」
「なんで……。どうしてここに?」
「分かんないけど、ここに来れば会えるんじゃないかなって思ったから」
彼女の言葉が理解できない。一体何のために私に会いにきたのか。いや、理由は決まっている。そしてその理由は肯定的なものではないのだろう。
「わざわざ私を拒絶しに来たの?」
「拒絶……。何の話かわからないけど、私がそんな事するわけないじゃん。そもそも、先に拒絶したのはそっちじゃん。なんで私の話聞いてくれなかったの?」
なにも言い返せない。確かにそうだ。勝手に言って勝手に傷ついて、可能性ばかりに気を取られて、言われていない言葉に意味もなく怯えていたのだ。
「確かにそうだよね。私が全部悪い。ちゃんと聞けばいいのに、肝心な所で逃げちゃった。もう逃げないよ。でも、今日のことは忘れて欲しい。わがまま言ってごめん」
「嫌だよ。忘れたくないし忘れられないよ。君がわがまま言うんなら私だってわがまま言うよ。どうしても忘れて欲しいなら私と勝負して」
「勝負って、もしかして決闘でもしようってこと?」
「そんなわけないじゃん。ジャンケンだよジャンケン。もしここが私の部屋だったらボードゲームでも出すんだけど、ここは屋根が無いからね」
屋根があったらやるのか……。私たちはいつもそうだ。何かあったらすぐにジャンケンで勝敗を決めようとする。三回やって、先に二回勝った方の勝ち。至ってシンプルなルールである。
「私が勝ったら今日のことは忘れて」
「もちろん、何だったら君のことも忘れるよ。でも私が勝ったら、さっきの話の返事聞いてもらうからね!」
この勝負、最初から勝敗は決まっている。彼女には癖がある。彼女は必ず、最初にチョキを出し、その次はグー、そして最後にパーを出す。本人は気付いていないみたいだけど、私はそれを知っている。知った上でその癖を利用して、勝ちたい時に勝ち、負けたい時に負けていた。この勝負もさっさと勝って全て忘れてもらおう。
手を握りしめ彼女の前に突き出す。でも、本当に忘れられていいのだろうか。彼女の顔を見る。その顔は自信に満ち溢れていた。絶対に勝ってやる。そんな自信が確信として顔に滲み出している。
「じゃあ、始めようか」
「望む所!」
「「最初はグー、ジャンケンポン!」」
二人の声が重なり合う。案の定チョキを出す彼女に対し、しれっとグーを出す私。次にチョキを出せば私の勝ち。それでおしまい。そう思って再び構え直す。また、二人の声が重なる。今までありがとう、そんなことを考えながら力一杯チョキを出した。
「嘘……」
「へへん。やっぱり、次に私が何を出すか分かってたんでしょ」
得意げに笑う彼女を見て理解する。バレていた。自身の癖と、それを私が知っていると言うこと。私は負けたのだ。後がない。こんなにも緊張感のあるジャンケンは初めてだ。大きく深呼吸して彼女の顔を見る。彼女も私を見ている。
「ねえ、君が私の癖を知ってたように、私も君の癖知ってるんだよ」
「え、何の話?」
「今から教えてあげる。最後の勝負行こっか。もう最初はグーなんて要らないよね」
大きく振りかぶる彼女に驚きつつ、咄嗟に握り拳を突き出した。突き出してから気付く。これが自分の癖らしい。それを証明するかのように、彼女は大きく広げた手をひらひらと揺らしながら得意げに笑っていた。
「私知ってるんだよ。君は、動揺したり興奮すると手をギュッて握りしめちゃうんだよね」
「……、いつから知ってたの?」
「前から何となくそうなんじゃないかなって思ってたんだけど、今日教室で私のおっぱい揉んでる時、すっごい力入ってたよ。取れちゃうかと思った」
自分にそんな癖があったとは。全くもって知らなかった。完敗だ。でも不思議と悔しくはない。むしろ清々しいくらいだ。彼女はきっと、私がズルをすることを前提にジャンケンを挑んできたのだろう。最初にわざと負けて油断させる。油断したところで勝って私の動揺を誘ったのだろう。あとは急に勝負を始めれば驚いた私が勝手にグーを出す。
「私もまだまだだね。あー、その洞察力をもっと別のところで発揮してくれたらいいのに」
「負けたのによくそんな態度取れるね。まあそれは一旦置いておいて、そろそろ私の返事聞いてもらうかな」
コクリと頷くと、彼女はとても嬉しそうな顔で笑った。笑いながら私の頬にそっと手を置き、そのままグッと顔を近づけてくる。
「な、なに?」
「なにって、分かってるでしょ? これが私の返事だよ」
「ま、待って!」
言い終わる前に口を塞がれてしまい、思わず目を閉じてしまう。柔らかい感触が広がり、後から甘い香りが漂ってくる。気が付くと私は、彼女の背中に手を回し力一杯抱きしめていた。彼女の鼓動が伝わってくる。ドキドキしている。でもそれは私も同じなようだ。心臓の鼓動が異様に早い。ああ、こんな時間がずっと続けばいいのに。
少しして、彼女の唇がそっと外れた。解放された私は、荒くなった気球を整えるために肩で呼吸をしてしまう。気になって彼女の顔をちらっと覗くと、彼女は相変わらず笑っていた。笑いながら私と同じように涙を流している。
「私ね、ずっとこうしたかったんだよ。でもこんなの普通じゃない。普通は異性でやることだもん! 私たち、普通じゃなくてよかったね」
「そうだね……」
頬を真っ赤に染め、そう小さく呟くことしかできなかった。ずっとキスをしたいと思っていた。でも、いざしてみると恥ずかしいもので、彼女の顔を直視することができなくなってしまう。そうやって顔を逸らしている私を見て興奮したのか、再び顔を近づけてくる彼女。
「もう一回しようよ」
「今は恥ずかしいからダメ」
本当はしたい。ずっとくっついていたい。でも今は心臓が爆発しないように平静を保つので精一杯である。彼女には申し訳ないが今日はもう遅いし帰ろう。そう声を掛けようとした途端、それを阻止するかのように彼女が大きな声で話し始めた。嫌な予感がする。
「どうしてもしてくれないんだね? 分かった。じゃあこうしよう」
「こうしようって、まさか……」
私の言葉を聞いて不敵な笑みを浮かべる彼女。思わず唾を飲む。どうやら私の予感は当たっているようだ。彼女は一呼吸置いて言い放った。やっぱりな。私はそう思うことしかできなかった。
ーーねえ、じゃんけんしない?
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