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弱者は正義なのか



この前テレビ番組で、
セクハラについての特集がされていた。

番組の調査では、
下の名前で呼ばれる
恋人の有無を訊かれる
ボディタッチをされる
などをセクハラだと感じる、という意見が3割前後あった。


彼らが不快感を抱いていることは事実だろう。
一方で、名前で呼ばれることで親近感を抱く人や、恋バナが好きな人や、ハグや握手にあたたかさを感じる人もいるはずだろう。

そういった人たちのコミュニケーションの喜びが、
“3割の人がハラスメントだと感じるから”
という理由で失われてゆくのだろうか。


〇〇ハラスメント
という言葉が乱立しているハラスメント戦国時代。
これもハラスメントなの?
え!?これも?
もう何も発言できないんだけど…ってなる。


人を傷つけることはもちろん悪いこと。
できれば誰も傷つけずに生きたい。

でも、誰ひとり傷つけたことのない人なんてこの世にはいないだろうし、どんなに神経を尖らせて四方八方に配慮をしたとしても、意図せず人を傷つけてしまうことは人間の宿命だと思う。


そんななかで現代のこの空気感は、八方美人を量産し、傷ついた、嫌だった、という言葉ばかりがフォーカスされやすくなっている、というのがわたし個人の体感だ。


はたしてこの流れが行き着く先で、人との信頼関係は築きやすくなるのだろうか。


会社のシステムが嫌だ、傷ついた、精神的に不安定だ、然るべき措置をとって訴える。
と言っていた同僚が、ついこの前わたしの職場にもいた。日頃から口を開けば愚痴ばかりの彼は、そのときも自分に非があるとは微塵も思っていない様子だった。
同僚たちはこぞって彼を心配しているようで、同調したり、チョコをわたして彼をはげましたりしていたから、なんだかな〜とモヤモヤしながらもわたしはだんまりを決め込んでいたが、わたしには彼側にも非があるように見えたし、なにより、彼の愚痴や文句を聞かされるのが不愉快だった。(これはひょっとして愚痴ハラスメントとでも言うのか?)


もちろん、誰も傷つかないように配慮をしながら話をする人はすばらしいし、好感を持てる。でも、あまりにも気を使いすぎて当たり障りのないことしか言わない人とはどうやったら仲が深まるのだろう。

好感は持てる反面、距離を感じる。この人、何を考えているんだろう、と。

ハラスメントになることを恐れて、自分を開くことも、相手に踏み込むことも、相手を受け入れることもしない世界では、コミュニケーション下手な人が増え、そのせいでまた新しいハラスメントが生まれ、トラブルはむしろ増えて行きそうな気さえする。

そして、可もなく不可もないコミュニケーションだけを身につけて、その外殻だけを他者に見せることに慣れきってしまった先には、本当に何も考えていない、薄っぺらい人間が完成しやしないか。

そのうち、幸せそうなカップルYouTuberまでもが、見ていて不愉快だというシングル集団によって、幸福ハラスメントとか叩かれ始めて、SNSの世界までも閉じられていくかもしれない。

そんなことを妄想しながら、ふと
最近の世の中って、弱い人が強すぎやしないだろうか。
と思った。

かくいうわたしも見えない何かに恐れ、書いては消し、書いては消しを繰り返しながら、この文を綴っている。

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