等々力の神様に愛された男
その人は言った。「等々力には神様がいた」と。
3年前のあの日。
サッカーなんて何が面白いの?と斜に構えていた私が、友人の影響でなんとなくサッカーを観始めたものの、まだ日が浅く、川崎フロンターレに関しては「シルバーコレクターと呼ばれている」くらいの知識しか持っていなかった頃。
その年の優勝が、川崎フロンターレと鹿島アントラーズのどちらになるのか気になり、自宅のテレビで試合中継を観ていた。気になりはしていたものの、特にどちらのサポーターであったわけでもなかった私は、なんとなくでしか観ていなかった。しいて言うなら、まだ優勝したことのない川崎フロンターレが勝つといいな、くらいの感覚であった。
その試合は、たとえ川崎が大宮に勝っても、鹿島が磐田に勝てば優勝はできない。川崎が優勝するには、まず大宮に勝ち、そのうえで鹿島が磐田に負ける、もしくは引き分けにならなければいけなかった。
双方の試合を交互に観ながら、試合が進むにつれ、どちらのサポーターであるわけでもないのに、なぜか私も徐々に緊張感が増してきた。軽い気持ちで観ていたはずが、いつの間にかテレビの前で手に汗握りながら試合を観ている私がいた。
川崎が優勝すれば、こんな劇的な場面にはそうそう出逢うことはできない。ましてや初優勝なら、その瞬間は1度きりしか訪れないのだ。そのドラマチックな場面がもうすぐ現実ものになろうとしていた。
川崎は試合終了間際まで点を取り続け、終わってみれば5-0の大勝。そして、なんと鹿島はスコアレスドローで引き分けていた。結果を知ったチームメイトが喜びを爆発させながらピッチに走り込んでくる。
それを見て自分たちの優勝を確信したその人は、一瞬顔を歪ませて、そのままピッチに突っ伏した。そしてただひたすらにむせび泣いた。15年、追い続けていた。ただひたすらそれだけを追い求めて、時に手が届きそうになりながらも、そのたびに手元から遠く離れていってしまったもの。ずっとずっと、欲しかったもの。それがようやく彼の手元に舞い降りた瞬間だった。
きっと胸を打たれるとは、あの瞬間のことをいうのだろう。彼の涙する姿は、とても美しかった。そのとき私は、この世界にこんなにも美しい涙があることを、初めて知ったのだった。気付けば私の目からも、自然と涙があふれていた。川崎サポーターの方々の涙もまた、美しかった。彼らも選手たちと同様に戦い、同じ苦しみを分かち合ってきたのだ。そしてあの瞬間、みんなが求めていたものが、ホームの等々力競技場で手にできた。これまでの悔しさや喜び、そういったすべての感情、それらを選手とサポーターが分かち合い、涙する姿のあまりの美しさに、私の心は感動で震えていた。そしてその光景の中心には、中村憲剛選手がいた。
あの時、あの涙を見て、私は中村憲剛選手の虜になったのだ。
美しい涙を流す人は、プレーも人柄も、すべてが素晴らしかった。彼が試合に出ていると、とにかくワクワクする。きっと何か起こしてくれる、そういうワクワク感。あの絶妙なスルーパス。サポーターへの煽り。ゴールを決めたときのパフォーマンス。そしてクラブ、サポーターへの大きな愛情。
もっとずっと彼のプレーを観ていたかった。私が観たのは、彼の18年間の選手人生の中のたった3年間だけだ。日本代表の頃すらちゃんと観ていない。いま思えば、彼の18年間の選手人生すべてをちゃんと観たかった。昔の、「サッカーなんて」と斜に構えていた自分を叱りたいくらいだ。けれど、たった3年間でも彼のプレーを観れたことが嬉しい。だって私はこの3年間、ずっとずっと楽しかった。週末がくることが待ち遠しかった。そんなふうに3年間を過ごすなかで、サッカーがこんなにも楽しくて、ワクワクするものなのだと知った。彼がいなければ、こんなにもサッカーを好きにはならなかっただろう。
そしてなによりも彼からは、諦めない心を教わった。
シルバーコレクターと揶揄されながらも、諦めず努力を重ねた結果が、彼のサッカー人生の最後の5年間に集約されているのだろう。大怪我からの復帰戦でゴールを決め、40歳の誕生日当日にもゴールを決め、そして彼は言った。「等々力には神様がいた」と。
その言葉には、諦めずに努力を重ね、結果を出した人にしか出せない重みと、そして真実があった。そこに至るまでの過程は決して楽ではなかったことは容易に想像がつく。そして当人にしかわからない、私たちには想像もできないような苦しみもあっただろう。それを乗り越えて、奇跡みたいな、いやもうこれは奇跡なんだろう。それをやってのけた人の言葉だからこそ、聞いているこちら側の心にも、素直に、そして深く染み入ってくる。「ああ、本当に神様はいるな」と。そして彼は、等々力の神様に深く深く愛されているのだろうと。
そんな素晴らしい選手がいなくなってしまった。悲しいけれど、これがスポーツ選手の運命(さだめ)なのだ。何かに熱くなることの素晴らしさを思い出させてくれたこと、何かにまっすぐ向き合い、ひた向きに努力することの大切さを教えてもらったこと、きっとずっと忘れないだろう。そしてこれからもサッカーを観続けるだろう。ときどき、「中村憲剛選手のプレーが観たいなあ」なんて思いながら。