生きる意味
「生きる意味とは」という問いに立ち向かったとき、苦しかったことを覚えている。
「あなたにとって生きる意味とはなんですか?それが分かれば生きるためのレールとなって今後生きるのが楽になるんです。その答えが見つかれば、もうここに来なくてもよくなりますね。」
当時通っていたカウンセリングで出された課題はとてつもなく大きくて、越えられない壁のような、行く手を阻む問いだった。それについて考えてしまうと、余計に心苦しくなる気さえした。私には生きる意味すらないのか。物事を深く考えて悩むことのない人間はこう言う。「そんなこと考えたって仕方ない。あほらしい。」その答えは一見救われたようにも思えたが、結局求めていた答えにはなっていない。そもそも自分の欲しい答えを他人に聞いたことが間違いだった。参考にならない蹴り飛ばされた問いは、縋る藁にさえなり損ねたというわけだ。
「役割を担う」ということは少なからず、その人が社会に必要とされていると認識する手段の一つになるように思う。私の母は現在仕事をしておらず、一人で実家に住んでいる。何も役割が与えられていなければ母はどんどん心身ともに老いていってしまうばかりだ。その懸念が少し減ったのが町内会での役員になったらしいこと。地域で生きていくうえで避けられないコミュニティで嫌々ながらやる役割だとしても、その役割を担うということで気にかけてくれる人もいるだろうという安心感が付随する。「誤差が出れば身銭を切らねばならない、あーやだやだ」と言いつつも、向こう一年母が役割を与えられていることに私は救われる。
では私の生きる意味とは何なのか。はっきりとした答えはまだ見つかっていない。きっと一つでなくたっていいのだろう。「国語と数学どっちが好きですか?」という問いに対しては「国語です。答えが一つではなく色んな解釈ができるところが。」と理路整然と答えられる自分がこういうときは憎らしい。
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