見出し画像

慟哭は深紅色の空に刺さって

こんばんは。
今回、ご紹介するのは、以前と同様、自作小説「莇」の一部、慟哭は深紅色の空に刺さって、という章になります。
生きたい、そんな当たり前の事を叫ぶ少女の姿を、空中庭園を舞台に描いております。
以下、本文になります。

慟哭は深紅色の空に刺さって


 所々硝子の欠けた、テンパードアをゆっくりと押し開ける。

幸い、扉に鍵はかかっていなかった。

ここを訪れるのは、随分と久しぶりだった。

小学校を卒業するときに訪れて以来だから、一年ぶりぐらいだろうか。

この廃ビルも、人の活気で溢れていた時代があった。

ビルの中には、いくつもの商業施設が立ち並び、平日祝日と問わず、家族から老若男女が訪れる、憩いの場となっていた。

私はと言えば、このビルの屋上にある、空中庭園に行くことが、何よりもの楽しみだった。

父親に連れられて行った場所。

顔も名前も知らない母親が、愛していたというジャスミンの花で溢れた場所。

私はそこで、甘い香りに包まれながら、二人がまだ幸せであったろう日の事を、夢想しながら過ごすのが、好きだった。

ありきたりな両親の元で、ごく当たり前の幸せを享受する、そんな子供に、一瞬でも、なれたような気がして。

ジャスミンの香りが、そんな夢のような世界に、連れて行ってくれると思えてならなかった。

私と、同じ名前の花。

母親が、愛してやまなかった花。

だから、私も、その花を愛した。

会ったことの無い、その女性を愛していた。

今は、近くに居なくても、この、瑠璃茉莉で満ちた世界に居れば、きっと、彼女は訪れる。

鈍色の世界から、連れ出してくれる。

そう、信じて、疑わなかった。



回想に耽っていた私を、『コツコツ』という、響き渡る靴音が引き戻す。

人気の無い廃ビルでは、ローファーの音が、煩いぐらいに良く目立っていた。

エレベーターの呼び出しボタンを押そうとした所で、当然の事ではあるが、電源が落ちている事に、今更ながら気付く。

目的の場所は、十二階。

そこまで、階段で登って行かないといけない事になる。

―帰ろうかな…。

予想されるしんどさに、憂鬱な気持ちが襲い掛かる。

もう、あの場所は、私にとっての、愛すべき場所ではない。

最後に訪れた時に、淡い想い出は、ジャスミンの花と共に、踏み捨てた。

その後、ここのビルは廃ビルとなり、私だけでなく人々の記憶からも、捨てられた存在となったのだ。

わざわざ訪れる人も、いやしないだろう。

「……」

私は、階段に、ゆっくりと足をかけ、登り始める。

『コツコツ』とした靴音が、再び、辺りに響き渡った。

今更、何故こんな所を訪れたのだろう。

自分でも、分からなかった。

けれど、何故か不意に、あの空中庭園に、行ってみたくなった。

もう、青い花々はないだろうけど、それでも行くべきだと、心が思った。

空に限りなく近いあの場所で、感情にもならないこの鬱々とした何かを、叫び出したくて仕方が無かった。

『コツコツ』
『コツコツ』
『コツコツ』

鋭利で、静かな音が、響き渡る。

私は、無骨に続く階段を、唯、無心で登り続けた。

その先に、何かがあるわけでは無いのに。

それでも、後ろから聞こえる足音から逃げるように、一心不乱に、登り続ける。

『コツコツ』
『コツコツ』
『コツコツ』

いつからか、遠く、後ろの方で、聞こえ始めた足音。

それが、何かは分からなかったけれど、何故か、追い付かれてはいけない、という事だけは分かった。

それは、きっと、痛みや悲しみや別れの音で、それに追いつかれたら、私は…。

『コツコツ』
『コツコツ』
『コツコツ』
『コツコツ』

やっと、半分辺りまで来た。

足を止めて、前を見据える。

そこには、相変わらず、代り映えのない景色が続いていて、精神的な疲労が、どっと押し寄せてきた。

―ここまで来たら、もう進むしかない。

鼓舞するように、再び足を運び始める。

『コツコツ』
『コツコツ』
『コツコツ』
『コツコツ』
『コツコツ』

―お前の母親は、高校の時に、男を知って汚れた。だから、あと数年で、お前もそうなるんだ。誰からも、私からも愛される事すら無くなる、穢れた女に―

馬鹿らしい。

あの人から離れていった母への未練を、唯、私にぶつけているだけ。

私への行いを、唯、正当化したいだけだ。

そう思っていた。

母親に、初めて会いに行った、あの日までは。

『コツコツ』
『コツコツ』
『コツコツ』
『コツコツ』

―あの人の、言うとおりだった。

母が愛していたジャスミンは、彼女の家の床で、無様に枯れ果てていた。

あの、庭園で打ち捨てられているジャスミンのように。

きっと、彼女の心の中で咲き乱れていた花々は、もうそこにはないのだろう。

『コツコツ』
『コツコツ』
『コツコツ』

母親の心の中に在るのは、醜いまでの男への執着。

美しかったであろう、私が思い描いていた彼女の姿は、面影の一つも、最早なかった。

『コツコツ』
『コツコツ』

父親の狂気から抗うように、必死に生にしがみつくのも、疲れた。

―後、数年…。

そう思ってしまえば、ある意味楽だった。

私の中に、流れている血。

あと数年で、あのような穢れた者になってしまうのなら、その先に、私が生きている意味などは無い。

そうだ、後、数年。

なら、いっそ、今ここで、終わらせてしまおうか。

生きる意味がなくなる、その日まで、わざわざ、待つ必要などない。

迫りくる足音に怯えるぐらいなら、敢えて向かってやればいい。

ああ、そうか。

きっと、私が、ここに来たのは…

『コツ、コツ…』

目の前には、分厚い、金属製の扉があった。

空中庭園がある、ビルの屋上に辿り着いたようだ。

扉に、手をかける。

ずっしりとした冷たさが、私の心を、鋭く凍らせていく。

明瞭で、一切の揺らぎもない視界の中で、少しずつ、その扉を、押し開けていった。

「……」

扉を開けた瞬間、ふわっと、ジャスミンの、懐かしい香りが、舞い込んで来たような気がした。

そんなはずはない。

錯覚だ。

そう思いながらも、目の前に、あの瑠璃色で満ちた、温かな景色を、想像した。

「ふっ…」

思わず、鼻で嗤う。

眼前に広がるのは、胡桃染の荒れ果てた土塊。

差し込む赤い光が、愛想のない床土に反射して、眩しい。

かつてはそこに、綺麗な花々が咲き誇っていただろうに、見るに虚しい景色であった。

―まるで、私みたい。

空っぽな笑い声が、小さく漏れ出る。

そこで私は、この空中庭園に、自分以外の人の気配があることに気付く。

―嘘。何で、人が…。

急いで、近くの物陰に身を顰める。

こんな廃ビルの空中庭園に、わざわざ訪れる人が、私以外に居るなんて。

脈打ち始めた鼓動を抑えながら、その人物に向かって、目を凝らす。

その人物は、私が通う、青藍学園と同じ制服を着ていた。

―あの子は…、藤村あざみ?

確か、二年に上がって、初めて同じクラスになった女の子。

良く笑う笑顔が眩しい、ごく普通の少女だった。

けれど、一年の後半、彼女を襲った痛ましい事件により、その笑顔は消え去った。

学校内でも、生徒たちの注目を浴びる事になり、保健室登校が徐々に多くなっていた。

私と同じ、父親の手によって汚された、憐れな少女。

いつからか、私は彼女に、親近感を抱くようになっていた。

―あの子が、何の用でこんな所に。

不思議に思いながらも、あざみの方を注視する。

あざみは、泣きながら座り込み、土の上で何かをしていた。

―あれ、私が踏みつけたジャスミン…。

どうやら、折れて萎れたジャスミンの花を、差さえ棒で立て、世話をしているようだ。

何故か、一輪だけ残っていたその花。

踏みつけたにも関わらず、一年近く、辛うじて咲き残っていたのは、降り注いだ雨や、外から差し込んでいた日差し達のおかげだろうか。

どちらにせよ、奇跡的に生き残っていたその花を、彼女は、涙を流しながらも、愛でていた。

心に、温かいものが、流れたのを感じた。

―…え?

涙を、流していた。

父親に、初めて汚された時も、

母親に、初めて会いに行った時も、

ジャスミンの花を、踏みつけた時も、

一度も、流さなかった、涙を。

「…っ」

たった一つだけ、踏み捨てたはずのジャスミンが、奇跡的に残っていて。

それを、一人の少女が、涙を流しながら、愛でている。

その光景が、まるで、自分の事のように思えて

―必死に、一人で生きて、
偉いね、頑張ったねー

彼女の言葉が、自分にかけて貰えているような気がして

その温かさが、心に沁み込み、

私の中の冷たさが溶けていく度に、

露になった痛みと共に、涙が溢れて、止まらなかった。

しばらく、花を愛でていたあざみは、不意に立ち上がると、鉄格子の方に向かって、歩き出す。

―まさか、飛び降りる気じゃ…!

彼女が抱えている事情や、今のシチュエーションを考えれば、何も不自然な事ではない。

止めに行くべきか、逡巡していると、彼女は、鉄格子に掴みかかり、その向こうの、空に向かって、叫んだ。

「生きたい…」

もう一度、絞り出すように、凛とした、それでいて、切実な声で、

「…っ生きたいんだよぉぉ!」

―ああ…。

その姿は、とても綺麗で、

夕陽に、きらきらと輝く涙と

風で靡く、艶やかな紫黒の髪が

私の心を、強く、握りしめた。

生きたいだなんて、

そんな、当たり前の事を、必死に叫ぶ、彼女の姿は、

どんな美術品よりも美しく、

誰よりも、今を生きていた。

生まれ落ちた時から、平等に手にしていたはずの権利を、自身の不当な境遇によって、失いそうになりながらも、

それでも尚、後ろを向くことなく、その権利を、声高に主張する彼女は、確かに生きていた。

生きながらに死んでいる、私とは違う。

―死にたい、だなんて…。

彼女の、今の姿を見れば、どれだけ馬鹿げていたかが分かる。

何が、迫りくる足音に、自ら向かってやればいい、だ。

走り続けるべきだろう。

その音が、聞こえなくなるまで、足がもつれても、走り続けるべきなんだ。

その結果、追い付かれたっていい。

だって、苦しみに塗れて、死の存在に怯えながらも、それでも、『生きたい』と叫ぶ彼女の姿は、こんなにも、美しいのだから。

その美しさは、かつて私が、この庭園に見た、あの青い花々の美しさと同じだった。

この庭園で夢見た、母親の美しさと、同じだった。

叫び終えたあざみは、涙を拭うと、そのまま庭園を後にした。

残された私は、一人、彼女が先程まで居た、鉄格子の前に立ち尽くしている。

「……」

一歩、足を進め

鉄格子に、掴みかかった。

彼女と、同じように。


「…たい」

ー私も

「…きたい」

ーあの子のように

「生きたいっ…!」



震える声は、深紅色の空に刺さって、

雨が、静かに落ち始める。

私の頬を伝いながら、ゆっくりと落ちる雨は、

少し、冷たかった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?