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それは、きっと五月雨のせい

皆さん、こんばんは。
木瓜です。

今回は、自作詞『額紫陽花』を短編用に書き下ろした作品をご紹介させて頂きます。

以下、本文になります。


           『それは、きっと五月雨のせい』


  
   季節は、夏の入り口とも言える、六月。

梅雨真っ只中のせいか、ここ最近は、雨に濡れる事が多い。

五月雨

この時期に降る雨の、多量に緑を孕んだ香りと、
いつも立ち寄る公園の近くから流れてくる、海の香りが混ざって、私の心は、何処か少し、馬鹿になる。

だから、きっと

今、こうして、いつもの、紫陽花が咲き乱れる海辺の公園で雨を凌ぎながら、

出会ったばかりの、名前も知らない女と二人、線香花火を眺めているのは、

五月雨のせいで

心が少し、馬鹿になっていたからに、違いないんだ。



 
 その日も、私はいつも通り、自宅から二駅程離れた、海辺の公園を訪れていた。

天気は、相変わらずの雨模様。

いくら傘を差した所で、この時期のしつこい雨を凌ぎ切る事など出来るはずもなく、服も、靴も、随分と水気を含んでしまった。

私は、タオルで出来る限り水分を拭き取りながら、公園内の小さな軒下で、雨をやり過ごす。

濡れる苦労を冒してまで、わざわざ外へ出かける必要があるのか、と疑問に思う人もいるかもしれないが、この、海辺の公園には、その苦労を買ってでるだけの、価値があるのだ。

それは、梅雨の時期にだけ咲き乱れる、色とりどりな紫陽花を拝む事が出来る、という事。

この辺りで、これ程までに鮮やかで、豊富な紫陽花を見る事が出来る場所は、残念ながら他には無い。

赤、青、紫の花々が、雨で艶やかに濡れる事で、その発色をより強くしている。

晴れた日では、この紫陽花達の魅力を、十全に引き出すことは出来ないだろう。

近くに海があるおかげか、漂う風は何処か冷たくて、不快な蒸し暑さも、此処では差程気にしなくていいのも助かる。

海の香りと、辺りの紫陽花で相まった、梅雨特有の緑の香りが混ざって、私の心を波立たせる。

それは、長らく置き去りにしていた、子供心を擽るような、

何かの始まりを期待させる、そんな気分に私をさせた。

「何か、良いな…」

屋根の下、落ちていく雨粒を眺めながら、独りごちた。

紫陽花の色が、私の世界に色覚を戻し、

海と緑の香りが、眠った意識におはようを告げて、

降りしきる雨が、心の澱を、洗い流してくれる。

いっその事、雨の中に飛び込んで、せっかく乾かした衣服も含めて私毎、水に浸してやるのもいいかもしれない。

そんな事を、考えていた時だった。

公園の軒下に、一人の女が駆け込んで来た。

年齢は、恐らく自分より少し上、二十代後半ぐらいだろうか。

よく見ると、所々が水で濡れている。

傘は持っているようだから、私と同じく、梅雨の雨足に、傘の方が負けてしまったのだろう。

タオルで軽く、黒い髪を叩きながら、その人は私に声をかけた。

「雨、ですね」

直ぐに忘れてしまいそうな、取り立てて派手な顔立ちと印象ではない。

寧ろ、掴んでいったら消えてしまいそうな雰囲気で、そんな印象とは裏腹に、凛とした、透き通るような女の声だけが、やけに私の耳に残った。

「ああ、そうですね。かなりの雨だ」

私は、視線を目の前の紫陽花へと戻し、女に言葉を返す。

「…綺麗ですよね。ここの紫陽花」

まただ。

この女には似つかわしくない、良く通る声が、私の心に一つ、波を立てる。

「来たこと、あるんですか」

「ええ。何度か。この時期の、雨を纏った紫陽花が好きなんです」

女は答えた。

まさか、私以外に、雨の中、紫陽花を見に来る物好きが居たとは。

「…今日は、紫陽花を見に此処へ?」

私は、女の方へと視線を向ける。

やはり、こう言っては何だが、とても地味だ。

所々に青を散りばめた衣服は、女の雰囲気に良く似合っていて、あの紫陽花のように、綺麗だなとは、思う。

けれど、幾ら綺麗な紫陽花でも、比較的ポピュラーな青色の花は、その他大勢に溶け込んでしまい、人の記憶には残らない。

言ってしまえば、目の前の女性の美しさとは、そういうものだ。

「そうなんです。後は、花火をしようかなって」

「花火?此処で?」

「去年のが残っていて…、せっかくだから、此処で供養しようかなと」

そう言いながら、女は手提げの鞄から、雨で湿気った、余り物の線香花火が入った袋を見せて、私に笑う。

雨が降る中、屋根の下で二人。

辺りには、綺麗な紫陽花が咲き誇り、

海の香りと、緑の香りが混ざりながら、立ち込める。

目の前では、出会ったばかりの名も知らぬ女が、残った線香花火を見せながら、困ったように笑っている。

そんな状況が、何だかとても可笑しくて、私も釣られるように笑いながら、

「一緒に、やりましょうか」

と、線香花火を手に取った。

気付けば、時刻は既に、夜半の入り口。

競い合うように、

強く弾ける、二つの青い光が、

掴んでいったら消えてしまいそうな、

目の前の女の存在を、鮮やかにしていた。


この日の出来事を、誰かに弁明する機会が与えられたなら、

私は必ず、こう言うだろう。



『五月雨のせいで、心が少し、馬鹿になっていたからに違いないんだ』







 『あめさめだれとぐれて読み』

居間でくつろいでいた彼女が、降りしきる雨を眺めながら、そんな事を呟いた事があった。

『…何だって?』

急に訳の分からない事を言われたものだから、何かあったのかと随分訝しんだのを、良く覚えている。

何せ、相変わらず消え入りそうな雰囲気の彼女が、雨を眺めながらぽつりと、そんな事を呟くものだから、こちらとしては、今際の言葉なのか、とか、あらぬ事を想像してしまう訳である。

呆然としている私に小さく微笑みながら、彼女は、手元にあったメモ帳から紙を一枚切り取り、そこに何か書き込んで寄越した。

ー雨雨雨と雨て読みー

『何て読むの?これ』

『だから、あめさめだれとぐれて読み、だって』

『え、これで?』

『うん。江戸時代の川柳なんだって』

『へぇ。川柳ね』

『これを書いた人は、同じ雨を、色々な角度から楽しもうとしてたのかもね。』

そう言いながら、彼女がまた、雨を見つめる。

『ねぇ。また、あの公園で、線香花火しようよ』

視線を、外の雨に向けたまま、彼女が呟いた。

初めて、線香花火をしたあの日から、私達は毎年、この時期になると、二人であの公園へ、線香花火をやりに行くようになっていた。

でも、去年、私達は、その公園で、線香花火をする事はなかった。

『ああ… また、今度ね』

小さい振動と共に、スマホに届いたメッセージに目を向ける。

庭には、二人の好きな、綺麗な青紫陽花が咲いてる。

けれど、紫陽花の綺麗な色は、土中のアルミニウムの量によって、何れ、移り変わる。

色彩豊かで、目を惹く紫陽花。

青色だけじゃ、物足りないんだ。







「何処か、出掛けるの?」

玄関口で、身支度を整えていた私の後ろから、不意に声が掛かる。

「…起きてたのか」

振り向いた先には、青い寝巻きを羽織り、眠そうに目を擦る彼女の姿があった。

「寝付けないから、ちょっと、散歩にね」

私は、視線を彼女から逸らすように、俯きながら答える。

「こんな時間に?もう、夜更けだけど」

彼女の声は、何処か不安気に、揺れている。

何時からだろう。

彼女には似つかわしくない、凛とした、良く通る声は、気付けば彼女が纏う、霞の様な雰囲気と共に溶けて、私の中から消えていった。

「静かなぐらいが、丁度いいんだ」

俯いたまま、扉の方へと向き直り、ドアノブに手を触れる。

「…相変わらず、目、合わせてくれないのね」

そのまま、出掛けようとした、私の背中に、彼女がぽつりと、呟いて、

扉が、静かに閉まる音が、聴こえた。


 パチパチと、火花が弾ける音がする。

海辺の公園で、赤い光を挟み、向かい合うように、二人。

いつもと違って、辺り一面の青に混じって、薄紅色が幾つか見受けられる。

私を惑わす、あの五月雨も、今は降っていない。

目の前では、所々で咲き誇る、薄紅色の紫陽花の様に、華々しい雰囲気を纏う女が、線香花火を手に屈んでいた。

やはり、紅色は良く目立つ。

埋もれる様な青の中で、紅差しを施した絢爛な紫陽花は、一際強い存在感を放ち、

二人の間で輝く、赤い火花と共に、

掴んでいったら消えてしまいそうな、あの青い彼女の存在を、朧気にしていった。

「ねえ。線香花火、つまんないんだけど」

目の前の女が、退屈そうな声でぼやく。

「何か、周りも紫陽花だらけで地味だし。どうせなら浜辺が良かった」

「花火がしたいって連絡寄越してきたのは君だろ」

「言ったけどさぁ。普通は手持ち花火とかでしょ。線香花火とか地味すぎるよ」

「風情があっていいじゃないか。此処だって、綺麗な紫陽花が見れる、この辺りじゃ珍しい公園なんだ。海だって近くに見えるだろ」

「せっかく海が近くにあるんだから、そっち行けばいいじゃん。紫陽花って、陰鬱でジメジメしてて、何か嫌」

苛立ちながら、不満を捲し立てる女の手元が激しく揺れ、線香花火の光が、虚しく落ちた。

「あぁ、だから嫌いなのよ。地味なくせに繊細で。いらいらする」

「………」

色彩豊かで、目を惹く紫陽花。

青色だけじゃ、物足りない。

そう思って、華々しい、薄紅色の花を求めた。

その筈なのに。

「もう、終わりにしよう」

「…今、何て言ったの?」

あの日、線香花火の青い光で照らされた、君の涙に気付いた時、不謹慎にも、綺麗だと思ってしまった。

雨で滲んでしまう紅紫陽花より、

艶やかに濡れる、青紫陽花に魅力を感じる様に、

哀しみの中に、君の美しさを見出してしまった。

それは、五月雨のせいだと思いたかった。

あの緑緑しい香りと、海の香りが混ざって、私の心が馬鹿になったせいに違いないと、

そう、信じたかった。

だって、可笑しいだろう?

隣で、君が笑う度に、心の奥が痛くなって、

記憶の中の、雨と涙で濡れた、青い君の姿が鮮明になっていく、なんて事。

あの日、泣いていた事を、君は話さなかったし、私も触れなかった。

それで良かったはずなのに、心の中では、名前も知らない誰かの為に流した、君の涙を、羨ましいと思っていた。

君は何時だって、私の隣で笑っていて、

今だって、こうして他の女と会っていることに、君はきっと、気付いているんだろうに、

あの時の涙を、私の前では流してくれない。

一度でいいから、私の為に、泣いて欲しかったのに。

そう思うと、苦しくて、君を見る事すら、私には出来なくなって、俯いて、目を背けるようになった。

向けてくれる笑顔より、流してくれる涙の方が嬉しいだなんて、私の心は、どうかしているんだ

だから、

あの日の事を、誰かに弁明出来る機会を与えられたなら、私は必ず、こう言うんだ。

『五月雨のせいで、心が少し、馬鹿になっていたからに違いないんだ』

と。

ああ、でも、本当は、

海と緑の香りに当てられる、ずっと前から、

私の心は、馬鹿になっていたのかもしれない。

だって、

どうしようもなく、私は

「終わりにしようって、言ったんだ」

雨で濡れる、青紫陽花の姿が好きで、

涙で濡れた、君の姿が好きなんだ。

「ああ、そう。今更、あの恋人が、大事になったって訳?」

「薄紅の紫陽花は、雨に濡れると滲んでしまう。雨が似合うのは、線香花火のような、青い額紫陽花だけだ」

「何、それ」

「君が泣いても、僕は悲しむだけだけど、あの人が泣いてくれたら、きっと僕は、嬉しい。その事に、今、気付いたんだよ」

「意味、分かんないけど。まあ、あなたが、相当頭可笑しいって事は、分かった」

「そうだね。自分でも、今、何を言っているのか、よく分かってない」

私の言葉に、女は大きな声で、笑った。

「馬鹿らしい。それで納得しろって?」

「…強いて言うなら、僕は、雨と紫陽花と、線香花火が好きなんだ」

「なるほど、ね。分かった。私も、好みが合わない男は御免だし、陰鬱同士、お似合いじゃない?」

呆れた表情で、女は肩を竦めながら、

「でもさ、ずっと逃げ続けて、都合良く生きてきたあなたが、幸せになれるなんて、思わないでよね。私も、あの女の事も、結局全部、あなたは失う事になるよ」

と最後に、吐き捨てるように言葉を残し、私の元を去っていった。



 



「雨、降ってるね」

居間で、ソファに腰を落ち着けながら、愛読書に目を通していた私の隣で、彼女が呟いた。

外に目を遣ると、確かに、瑞々しい糸の数々が、しとしとと地面に向かって降り注いでいる。

「ああ、そうだね」

ふと、海と緑雨の混ざった香りが、私の鼻腔を通り過ぎ、あの日の光景が、私の脳裏に蘇る。

「…線香花火、しようか」

「…え?」

彼女が、呆気に取られたような声を漏らす。

私自身も、思わず出てしまった自分の言葉に、少なからず動揺していたが、そんな事はおくびにも出さず、言葉を続ける。

「しばらく、行ってなかっただろう。あの、紫陽花が良く見える、海辺の公園に」

「そうだけど、でも…」

思い詰めた様に、しばらく逡巡していた彼女は、首を振りながら、

「…ううん、そうね。久しぶりに、行きましょうか」

と、あの、彼女には似つかわしくない、凛とした、良く通る声で、私に答えた。


  雨粒が、屋根で転がる音がする。

海辺の方から漂う潮風と、五月雨で濡れた紫陽花の緑の香りが混ざって、私の心を揺さぶっている。

額紫陽花のような、青い線香花火の熱の向こうから、君の笑い声が、聴こえてくる。

「何か、私達が、初めて出会った時の事、思い出すね」

「そうだね」

そんな彼女に私は、気のない返事をした。

ーああ。君は、今日も、そうやって、平気な顔で、僕に笑いかけるんだね。

「二年ぶり、かな。こうやって、此処で、あなたと線香花火、するの」

「そうだね」

君と、初めて出会ったあの日から、四年。

その間、一度も、君は、あの日と同じ涙を、僕の為には、流してくれなかった。

「…ねえ、此処には、私以外の誰かと、来た事、あるの?」

「そうだね」

どうしたら、君は、僕の為に、泣いてくれるのだろう。

だって、ほら

「それは、私と、付き合ってから?」

今だって、君は

こんな、酷い事をした僕に向かって、

いつもと変わらず、笑いかける。

「そうだね」

「私は、あなたの、恋人だよね」

「そうだね」

「…もしかして、私の事、嫌いになった?」

そんな馬鹿な。

口では言えないけれど、君の事を、嫌いになった事なんて、一度もない。

ああ、それでも、その問に、こう答えたら、君は

僕の為に傷付いて、

あの日の様に、涙を流してくれるのかな。

「…そうだね」

そう、答えた私の目の前で、彼女は、相変わらず、笑みを浮かべた。

頬に、一条の涙を、走らせて。

「………」

言葉が、出なかった。

線香花火の、小さな青い光に照らされて輝く、その水線は、

私が、あれ程焦がれたもののはずで、

やはり、記憶の中の、あの日の様に、

美しい事に変わりはなかった。

それなのに、

どうして、こんなにも心が、苦しいのだろうか。

息をする事すらも、ままならない程に、

心が、重みでどうにかなりそうで、

私は、彼女のその表情から、目を背けるように、俯いた。

「また、そうやって、目を逸らすんだね」

花火の熱が、指先にまで届いて、やけに熱い。

「そうだね」

「あのさ……」

彼女が、笑いながら、何かを言った。

「…………」

本当に笑っていたのか何て、俯いたままの僕には、分からなかったけど、きっと、いつもの様に、彼女は、笑っていたんだろう。

「………」

降り注いでいた雨は、突如その勢いを強め、屋根に打ち付ける沫の音と、散り際の激しい火花の音が、辺りに木霊して、煩かった。

「……」

海の香りを運ぶ風が、一瞬、僅かに吹き荒れて、

手元で、パチパチと弾ける僕の線香花火が、小さく揺れた。

ー風のせいだ。

そんな事を考えていた、私の目の前で、

青い、小さな光が落ちた。



   しばらく、明かりの消えた線香花火を、呆然と眺めていた私は、思い立ったように、残っていた内の一本を手に取って、火を着ける。

パチパチと、弾けるように音を立てる、小さな青い光は、掴んでいったら、消えてしまいそうで、

その光が、消えない内にと、

いつもの様に、

「ほら、君の分」

そう言いながら、顔を上げた。

「………」

見上げた先は、いつもの風景とは、何処か違って、何だかやたらと、広く見える。

ざあざあと降りしきる五月雨と、辺り一面に咲き乱れる青紫陽花が、余すことなく、視界の中に映り込む。

海と、緑が混ざったあの香りが、風と共に突き抜けて、私の心を、強く揺らし、

頬を、冷たい何かが、伝っていった。


ーああ……、


もし、

あの日の出来事を、誰かに弁明する機会が与えられたなら、

私は必ず、こう言うだろう。



『五月雨のせいで、心が少し、馬鹿になっていたからに違いないんだ』







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