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エンジェルタイム

こんばんは。
今回、ご紹介させて頂く自作小説は、他サイトで掲載済みですが、「エンジェルタイム」という短編になります。
こちらは、愛猫と過ごす最後の時間、「エンジェルタイム」をテーマにした作品となっており、切なくも温かい仕上がりになっています。
前回挙げたエンジェルナンバーとは、一応連なる部分もあります。
以下、本文になります


エンジェルタイム


 
「……ふぅ」

小さくため息を吐くと、私は手を止め、万年筆を机に置く。

窓からは、暖かな日差しが差し込み、春の静かな訪れに、どうしても気持ちが波打ってしまう。

「参ったな…。一向に原稿が進まない…」

プロットも定まらず、ここ一ヶ月程、全く作品を仕上げられていない。

妻が居た頃は、創作意欲も、アイディアも、これでもかと言うぐらい、溢れ出ていたのに。

「一年経ったと言うのに…。やはり、この時期はどうも、落ち着かない」

淡い、桃色の花々が芽吹き始める、春。

妻と、愛猫のミケも連れて、香しい空気の中を、良く散策していた。

毎年恒例の、そのささやかな行事が、私に生きる力を与えてくれていたことは、最早言うまでもない。

それが無くなってしまった今、この春の景色は、独り身の私にはあまりにも広大で、寂しい。

ここ数日、ミケを連れて、街に繰り出してみたりもしたが、どうしても、左側から吹く、風の冷たさを意識してしまう。

ミケも、猫の年齢で言えば、六十の私をとうに超えており、これ以上、散歩に付き合わせる訳にも行かなくなってきた。

より一層、一人の侘しさを意識してしまう。

ーこんなにも、春は静かだっただろうか…。

桜の声も、生命の息吹も、聞こえない。

書くべきものが、今の私にはなかった。

「…ミケに、エサをやりにいかんとな」

ゆっくりと椅子から立ち上がり、書斎を出る。

以前のように、エサを頬張ることも、今のミケにはままならない。

水で、ふやかしてやる必要がある。

ー少し、量を減らしておいた方が、いいだろうか。

食べる量も、格段に減っている。

それでも、あの美しい三毛模様の毛並みは健在なのだから、不思議なものだ。

いつもより、少し減らしたエサを水でふやかし、ミケがいるであろう、居間の方まで、エサを運ぶ。

居間には、庭に面した形でちょっとしたベランダがあり、そこの揺り椅子に、いつも妻が座っていた。

ミケは、そんな妻の膝で、いつも気持ちよさそうに寝ていて、私は、そんな穏やかな風景を見ているのが、好きだった。

妻が亡くなってからは、その揺り椅子には、ミケがいつも座っている。

その姿は、まるで、亡くなる直前の、妻の姿のようでもあった。

「ミケ、ご飯持ってきたよ」

呼びかけるが、反応がない。

居間の揺り椅子に、ミケの姿はなかった。

ー庭にでも、出ているのだろうか。

珍しいなと思いつつ、ミケの名前をもう一度読んでみる。

ミケが、一人で散歩に行くことは、もうほとんど不可能だ。

そんな体力すら、今のあの子には残っていない。

それでも偶に、庭に出ていることもあるが、そんな場合でも、いつもエサの時間になれば、名前を呼べば、すぐに顔を見せてくれる。

なのに、今日は、幾ら名前を呼んでも、顔を見せる事はなかった。

「ミケ…?ご飯だよ」

相変わらず、反応がない。

慌てて庭に出てみるが、ミケの姿は、当然なかった。

ーまさか…

昔、聞いた事がある。

猫は、自分の死期を悟ると、飼い主の元から姿を消し、一人でどこかへ行ってしまうのだと。

それは、猫が、死を認識出来る、唯一の動物だからだと、誰かが言っていた。

「ミケ…」

ミケも、老猫に入る歳だ。

人間で言えば、天寿を全うしていても、おかしくはない。

自分の死期を悟って、出ていってしまったのだろうか。

「ミケ!」

急いで、玄関にある靴を引っかけ、外に出る。

ーお前まで、お前まで喪ったら、私は…。


妻と二人、愛した猫。

あの、尊き日々の象徴であり、

亡き妻の、置き土産。

ミケがいたから、辛うじて生きてこれた。

一人寂しい時間を、ミケのおかげで、過ごす事が出来た。

ーお前まで、私を置いていかないでおくれ…。

一人は、辛い。

寂しいよ。

「…はぁ、はぁ」

心あたりのある所はくまなく探してみたが、どこにもミケの姿はない。

歳のせいか、走り回る事も、かなり億劫になっていた。

「…っミケ」

ーもう、あの子も、逝ってしまったのかもしれない。

そう、諦めかけた時だった。

ふわり、と

懐かしい香りが、辺りを包んだ。

妻とミケと、三人で良く見ていた、淡い桃色の、花の香り。

ひらひらと、一枚の花弁が、私の足元に落ちる。

ゆっくりと、顔を上げた、私の目の前には、

辺り一面、御所染色の景色が広がっていた。

「綺麗だ…」

ーこんな所があったなんて…。

この街に越してきて、もう随分と経つが、こんな場所がある事を、私は今の今まで知らなかった。

ーまだまだ、知らない事の方が多いな。

桜の木々の間を通り抜けるように、長い階段が続いている。

どうやら、ここは、桜が群生している小山のようで、その階段は、山頂の方へと続いていた。

「年寄りには少しきついが、これも何かの縁だろう」

意を決して、体を痛めないように気をつけながら、一歩ずつ、階段を登り始める。

ひらりと、桃色の花びらが、辺りに落ちていく。

その度に、仄かに甘い香りが、穏やかな空気を包み込んでいた。

ー不思議と、心が落ち着く。

ここ数ヶ月、一人で春を感じる度に、感情が悲しく凪いでいたのに、

この、桜色で満ちた景色は、悲しくさせる所か、私の心を、暖かく、緩やかなものにさせていた。

長く続く階段を登っている今も、何故か疲れを感じる事はなく、どこか活力のようなものが込み上げているぐらいだ。

ーこんな穏やかな気持ちになれたのは、いつぶりだろう。

遠く失ってしまった、あの日の景色が、再び私の中で色を持ち始めた気がした。

しばらく、そんな面持ちで登り続けていると、気付けば、山頂まで辿り着いていた。

山頂には、淡い桃色の木々と共に、懐かしい、小劇場のようなものが、建てられている。

ーこんな所に…?

それにしても、まぁ随分と懐かしい。

今も尚、このような小劇場を目にする事ができるとは。

どこか、私が若い頃に、足繁く通っていた、あのフィルム映画を上映していた小劇場に、似通ったものを感じさせる外観。

ーそう言えば、付き合いたての頃は、良くフィルム映画を見に行っていたな…。

「ニャーゴ」

郷愁に浸っていた私を、聞き覚えのある鳴き声が、連れ戻した。

「ミケ?」

小劇場の入口に、良く見知った、綺麗な三毛模様の毛並みをした猫が、行儀よく座っている。

ミケだ。

「こんな所に居たのか!心配したんだぞ…」

ミケの元へ駆け寄る。

ミケは、甘い鳴き声を出しながら、私の足元に擦り寄った。

「よしよし。おいで」

ミケを抱き抱え、怪我をしていないか、体の節々を確認する。

幸い、どこにも異常は無さそうだ。

「…ん?お前、心なしかふっくらしてないか?」

というより、記憶のミケより幾分か若い気がする。

隠れて誰かの所で、ご飯をご馳走になっていたりしたのだろうか。

ーまぁ、健康的な分には、問題ないか。

「ニャーゴ」

突然、ミケが私の腕の中から飛び降り、そのまま、小劇場の中へと入っていった。

「あ、ミケ。駄目だよ。戻っておいで」

名前を呼んで、連れ戻そうとするが、小劇場の中から、一向に顔を出す気配がない。

ー仕方ない…。

「…失礼しますね」

そう言いながら、半開きになっていた扉を押し開け、私は小劇場の中へと入っていった。

「おひとり様でしょうか」

小劇場の中で私を待ち受けて居たのは、黒いシルクハットに、これまた黒いスーツで身を包んだ、若い女性だった。

黒いシルクハットとスーツは、妙にその女性に馴染んでいて、スタイリッシュな印象を私に与えた。

「え、ええ…」

私は戸惑いながらも答える。

そもそも、小劇場のような外観をしていたが、ここがどういった所なのかすら把握していない。

ー早く、ミケを連れて出ていこう。

「一人というか、飼い猫がこちらに入り込んでしまって…。すぐに出ていきますので」

そう言って、ミケの姿を探すが、どこにも見当たらない。

ーおかしいな…。確かにここに入っていったはずなのに。

「あの、すみません…。こちらに猫が一匹、入って来なかったでしょうか。綺麗な、三毛模様の毛並の」

「ああ、ミケ様のお知り合いでしたか。
ミケ様なら、もう既にご入場されています。」

そう言って、受付の彼女が、奥の方の扉に視線を向けた。

「ミケを、ご存知なのですか…?」

私は、彼女が、ミケの名前を知っていた事に驚く。

私達夫婦には、特に親しい知人もいなかった。

ミケの事を誰かに話した事は、もちろんなく、私達以外に、ミケの名前を知っている人が居る事は考えづらい。

「ええ。ここは、生前、故人に寵愛を受けていた者が、その故人の紹介により訪れる事の出来る場所でございます」

そう言うと、彼女は黒いスーツのポケットから、白縹色のチケットを取り出す。

「紹介を受けた者は、このチケットを手に、ここを訪れます。上映演目は、その者によって様々ですが、ある者はそれを追憶と呼び、ある者は、それを走馬灯と呼んでいました」

そこまで彼女が話した所で、私の目の前を、明るい光の玉のようなものが、横切って行った。

「うわっ!」

「またのお越しをお待ちしております」

彼女は、そんな私を気にする事もなく、光の玉に綺麗にお辞儀をする。

「今の、光の玉は…」

「ここを訪れる、お客様の一人です。人間の言葉で言うと、付喪神、と言った所でしょうか。
なるほど、人の目には、光の玉に見えるのですね」

付喪神?

この人は、一体何を言っているんだ。

「ミケ様は、生前、桜庭ご夫妻に大層な寵愛を受けていました。
そしてこの度、桜庭薫様から、ミケ様をご招待する様、仰せつかったのです」

「え…?」

ー今、何と言った…?

「聞き間違いでなければ、今、桜庭薫と、言いましたか…?」

「ええ。言いましたが。それが何か?」

彼女が、キョトンとした顔で、首を傾げる。

「桜庭薫は、亡くなった、私の妻です…」

私の言葉を聞いた彼女の目が、大きく開く。

「まさか、桜庭秀次様でいらっしゃいますか?」

「ええ…。私は、桜庭秀次ですが…」

私の名前まで知っているのか。

益々、今いる場所とこの状況について、意味が分からなくなる。

彼女は、突如指を鳴らした。

ぽんっ、という音と共に現れた大きなフィルを手に取ると、慌ただしい様子で、何かを確認し始める。

「今の、どうやって…」

「何と…、これは…」

私の反応を無視しながら、ファイルを捲っていた彼女は、どこか困ったような表情で、その手を止めた。

「どうかしましたか…?」

「申し訳ありません。秀次様のご招待は、まだ随分と先の予定なのですが、どういった手違いか、ここまで道を開いてしまったようです」

「手違い?」

「ええ。ここには、どういった形でお越しに?」

「どういった、と言っても…。
ただ、ミケを探していたら、ここに着いていただけで…」

「ははぁ…。エンジェルタイム、という事ですか…」

「はい?」

私の反応などそっちのけで、彼女は話を進める。

「どうやら、ミケ様は、最後の時間を、秀次様と過ごすことを望んだようですね」

「最後の、時間」

嫌に、心を引っ掻く言葉だ。

「ええ。今回、秀次様がここを訪れる事が出来たのは、ミケ様の強い御要望によるものだったようです。
本来、招待のないお客様はお断りしていますが、今回は特例と致しましょう」

彼女は、「これでは、あの髭爺の事を、とやかく言う事も出来ないですね…」と呟きながら、奥の扉を開ける。

「丁度ミケ様がご覧になる演目が、上映される所です。
最後の瞬間が訪れる、その時まで、どうかごゆるりと、おつくろぎください」

言われるがままに、私は扉の奥へと進んで行った。

そこは、大きなスクリーンが備え付けられた、箱の中のような場所だった。

箱の内部には、小さな機械の駆動音が響き渡っている。

私は、スクリーンを良く見渡せる、真ん中の席を選び、腰をかける。

ー懐かしいな…。

映写機の音と光とそして、どこか埃っぽい香り。

それらは、私の青春だった。

妻と付き合い始めた頃、飽きる程に、小劇場に足を運んでは、垂れ流しのフィルム映画を、二人で、時間を忘れるぐらい、見漁った。

二人の手が、互いに重なり合うようになった頃、映画の内容を、一言一句間違えずに言えるようになっていたぐらいには、私達の時間は、フィルム映画と共にあった。

「ニャーゴ」

鳴きながら、ミケが私の膝に滑り込んでくる。

「お前…、一体何処に行ってたんだい?」

「ニャーゴ」

私の気持ちなど知る由もなく、ミケが呑気に鳴いている。

「そう言えば、フィルム映画が無くなった代わりに、私達は、お前と出会ったんだったな」

結婚して間もなく、世の中から、小劇場は徐々に姿を消していき、それと同時に、私達の時間から、フィルム映画も消えていった。

ミケと出会ったのは、そんな時だった。

街の小さなペットショップで、売れ残っていた、小さな子猫と出会った時、私達夫婦の間に空いてしまった穴が、埋まるのを感じた。

フィルム映画が無くなり、何処と無く、味気のない生活を送っていた私達に、この子が、また新しい色を、与えてくれたのだ。

「ニャーゴ」

ミケの鳴き声を合図に、目の前のスクリーンが、モノクロの点滅を繰り返しながら、ゆっくりと、動き始める。




『あら、貴方見てくださいな。とても可愛い子』

『んー、でも、売れ残っていた子だよ?何か、問題があるのかもしれない』

『ニャー……』

『構いません。私、この子に決めました。だって、ほら。このつぶらな瞳、貴方そっくりですもの』

『そうかい…?ん、でも、良い眼をしてるね。取り残されながらも、生きたいという意思が見える』

『そうでしょう?時代に取り残されてしまった私達と、この子はきっと、似た者同士ですよ』

『ンニャー……』

『ほら、おいでミケ』

『ミケ?もう名前を決めたのかい?』

『ええ。だって、こんなにも綺麗な三毛模様なんですもの』

『今日から、あなたの名前はミケよ。ようこそ、桜庭家へ』

『そうだね。ようこそ、ミケ。お前は今日から、私達の大切な家族だ』

『…ニャー』




『綺麗な桜ですねぇ…』

『ほんとだね。街からは少し離れているけど、ここに越してきて良かった』

『ニャー』

『ふふ。おいでミケ。お前も、この桜が気に入ったんだねぇ』

『…薫さん。また、来年も、この桜を見に行きましょう』

『…あら、恥ずかしがり屋の秀次さんが、珍しい。明日は雨でも降るのかしら』

『はぁ…。せっかく勇気を出して誘ったというのに…』

『ニャーオ』

『そうねぇ。ミケがそう言うなら、来年もこの桜を見に行きましょうか』

『全く…。薫さんは、いつもミケに甘いんだから』

『ニャー』



『ニャーゴ』

『あら…、ミケ…、いらっしゃい…』

『ニャー』

『ごめんねぇ…。今年も桜、見に行けなくて…』

『ニャーゴ』

『秀次さんは…、どうしてるのかしら…』

『ニャーオ』

『あの人…、私がいないと…、何も出来ないから…、心配だわ…』

『ニャー』

『ふふ…、そうね…、ミケ…、あの人の事、よろしくね…』

『ニャーゴ』




『薫さん…、どうして…、私は、あなたがいないと、何も、出来ないのに…』

『ニャー…』

『ミケ…、私には、もう、お前しか居ないよ…』

『ニャーオ』

『そうだな…、あの人の分まで、頑張らないとな…』

『ニャーオ』





スクリーンに映し出された映像が終わると同時に、辺りを、白い光が包み始めた。

「ニャー」

私の膝元で、ミケも、白い光を放っている。

ミケの体は、徐々に、小さな粒子となって空に舞っていた。

ーここは、生前、故人に寵愛を受けていた者が、その故人の紹介により訪れる事の出来る場所でございますー

ーどうやら、ミケ様は、最後の時間を、秀次様と過ごすことを望んだようですねー

ー最後の瞬間が訪れる、その時まで、どうかごゆるりと、おつくろぎくださいー

受付の彼女の、あの時の言葉が、私の中で反芻していた。

「ああ…」

ーそうか、ミケ、お前も…。

「ニャーオ」

ーお前も、私を置いて、逝ってしまうんだな…。

ミケを包む光が、一際大きくなった。

私は、出来うる限りの想いを込めて、ミケの頭を、優しく撫でる。

「ありがとう、ミケ。私は、もう、大丈夫だから。薫さんに、よろしく言っておいておくれ」

「ニャーゴ」

ミケが、私に鳴いた。

それを最後に、ミケの体は、きらきらと輝く光の粒となって、虚空へと消えていった。

辺りを包む光が、一層、強くなる。

勢いを増す光と共に、私の意識も薄れていく。

『秀次様。本日は御来場、誠にありがとうございました。またのお越しをお待ちしております』

消えゆく意識の最後で、あの小劇場の、黒色に身を包んだ彼女の声が、遠くの方で聴こえた。




「ん…」

鳥のさえずりに、目を覚ます。

目の前には、書きかけの原稿。

書斎での執筆中に、そのまま寝落ちてしまっていたようだ。

窓から差し込む、春の暖かな日差しが、眩しい。

「……」

永い、永い夢を、見ていた気分だった。

いや、あれは、果たして夢だったのだろうか。


「…ミケ」

ふと、あの愛猫の名前を呼んでみた。


返事は、ない。


私は、返事など返って来ないだろうという事を、心の何処かで理解していた。

「…書くか」


                             

                            『ニャーゴ』




「っ……」

ーまさか、な。

浮き上がりかけた腰を椅子に落ち着けると、万年筆を手に取り、書きかけの原稿に文字を走らせる。

この原稿が書き終わるのも、きっと、もうすぐだ。

窓から、一枚の、淡い桃色の花びらが、ひらひらと流れて来た。

それは、机の上に飾ってあった、写真立てに舞い降りて。


春が、訪れた。

一人きりの、温かな春が。




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