【炒った豆でもあるまいし、いつか芽が出る時が来る】
タイトルは昔、祖母が私によく言っていた言葉。
ちいさなちいさなたね。きっと芽が出る。
あったかくなれば、
水があれば、
空気があれば、
たとえ何年かかろうと、じっとその日を待ち続ける。
見付けてくれる人がいる。
温めてくれる人がいる。
潤してくれる人がいる。
花を咲かせるかも、
実を付けるかも、
葉になるかも、
たとえどんな姿になろうとも、きっと誰かの為になる。
その日のために、じっと待ち続ける。
これはたしかなことだと思う。だから、子どもたちはいつか花を咲かせるし、実を付けるときが来ると信じられる。それは、種があればの話。もしかしたら、種がないかもしれない。いや、種があるのに、種だと見付けていないかもしれない。そんな子に、どんなに温かい声をかけても、知識を注いでも、仲間と触れ合わせても、芽は一向に出て来てはくれない。まずは、自分の種を気付かせなくては。
叱責する?
繰り返し挑戦させる?
とりあえず、やらせる?
規律を徹底する?
そんなことは何にもならない。どんなに叱責しようとも、同じことを繰り返し挑戦させても、規律を徹底しても、独りになったら自分のやりたいように戻ってしまう。教員がどんなに努力しようとも、水の泡と消えてしまう。だって、そこに種はないんだから。宿題や家庭学習をやらせる。字を丁寧に書かせる。姿勢を良く座らせる。話を最後まで聞かせる。どれも大切なことなのは理解している。でも、それだけでは芽は出ない。ぜったいに出ない。辛い経験を何度しようとも、教員がどんなに時間をかけて説教しようとも、芽は出ない。私たち大人は、本当に種がそこにあるのか、確かめることを怠ってはいけない。土の中に種を埋めたからと言って、安心してはいけない。もしかしたら、鳥が啄んでしまったかもしれない。水に流されたかもしれない。深く埋めすぎて、芽が土の上に出られないのかもしれない。それなのに、大人は一生懸命水をかけようとする。やがて、ふやけて腐ってしまう。
五感を刺激してみる。そして、表情をみる。
何かやらせてみる。そして、達成度を確認する。
ときどき問いかけてみる。
人にとって、種とは。心であり、愛である。愛と魂が合わさって、はじめて創造性や大胆さが生まれる。種は、思いもよらない場所に、驚くような形で埋まっている。一度、埋めてしまったら、決して見ることは出来ない。だからこそ、慎重に、丁寧に、たくさんの言葉をかけてやらなくては。一つの考えに囚われたり、思い込みで行動したりせず、自由に創造性を持って向き合う。そうしてやっと芽が出るのだと思う。
炒った豆でもあるまいし、いつか芽が出る時が来る。そこに気付かせるのが、教師の仕事。簡単に出来るわけがない。