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【教師の役割と責任】

教師とは、人間、とくに子ども、青年を指導し、その発達を助け、促す人と言われる。先生、教員、教育者、師匠とも言われる。一般に、先生と言えば、教育機関、あるいは塾において、教える人のこと。政治家や医者なども、一部慣習上、先生と呼ばれることがある。師匠は、茶道や華道、あるいは武道などで教授する人に使われる。教育者と言うと、より広く人格形成者という意味で使われる。

教師には3つの役割がある。3つの役割というよりも教師には3通りの指導方法があるという方が、適切かもしれない。だが、目指す教師とは3つの役割を備えることだ。
まずティーチング。子どもが知らないこと・できないことを教える指示的な役割。この場合、教師は子どもに教え込む側面が強くなる。子どもの側から見れば、受動的な学びが中心となる。小学校低学年であったり、知識や経験が不十分な子どもを指導する際には、非常に効果的な方法である。子どもたちの急速な成長を期待出来るというメリットがあるが、あれこれと細かい指示を与えすぎると、子どもの自主性を阻害するというデメリットがある。
次はコーチング。子どもたちがすでに知っていたり、できるようになっていたりすることを、引き出すという支援的な役割。この場合、教師はタイミングを見計らって子どもたちへ質問を投げかけ、それに対応して、子どもが自ら考え、答えを導き出すという手法を通じて、子どもの自発性を引き出し、子どもの成長を促すことが出来るというメリットがある。教師は子どものサポート役に徹することになるため、即時性に欠けるというデメリットがある。しかしながら、自ら考える力をもった主体性のある子どもを育てることが出来るとして、アクティブ・ラーニングという教育観に便乗して注目されている。
ティーチングは教師から子どもへの一方向で、子どもの不十分な部分と教師との差を埋めるが、コーチングは教師と子どもの双方向のやり取りで、子どもの成長を促進するため、子どもが教師が思いもしなかったような成長を見せることがある。
最後はカウンセリング。子どもが抱える問題・悩みなどに対して、専門的な知識や技術を用いて解決していく相談援助的な役割。子どもが実生活の問題や悩みに主体的に相対していけるように、アドバイスや明確な解決策を提示せず、教師が子どものペースを大切にして、子どもと向き合うことで、子どもが新しい理解や洞察に自発的に辿り着けるように導く。心に耐性を備えたり、さまざまな問題に対して自発的に対応できるメリットがあるが、子どものペースに合わせるため、時間がかかるというデメリットがある。

教師には父性・母性が必要と言われる。ティーチングが父性なら、カウンセリングは母性。そしてコーチングは兄貴性かな。(笑)では、「私は父性型教師だから、ティーチングをしている」「私は母性型教師だからカウンセリングをしている」「私はコーチングをしている」と明確に分けて言うことがあるだろうか。教師として、子どもに向き合う際には、授業法や学級経営において、ティーチング・コーチング・カウンセリングの背後にある考え方をしっかりと意識して進めなければならない。さらに、そこには、子どもの知識や経験に応じて、教え込んだり、引き出したり、寄り添ったりという手法を使い分けていく。

教師には、人を育てるという責任がある。学校の内外で起きたことも、子どもの将来に大きく影響を与える。学校で、勉強だけを教えていればよいという姿勢では、子どもや子どもを取り巻く方々からの信頼を得ることはできない。教師とは、単に先生としてではなく、一人の人間として、子どもたちに起きる問題や悩みを軽減するように努めなければならない。教師は子どもたちに対して、一人の人間として社会生活を営むこと、そのために、家族や友人を大切にすること、学業を大切にすることを順に強調するべきだ。学業がすべてに優先するといった姿勢で指導にあたることは、子どもの人格を無視した一人よがり以外の何ものでもない。

学力向上は大切だ。だが、多くの子どもたちにとって、その先にいったい何があるのか。学力向上がまったく機能せずに、社会に落ちこぼれた子はどうするんだろう。アクティブ・ラーニングは、そのためのセーフティーネットになり得るのだろうか。いま若者は、ただ幸せに生きていたいというささやかな願いのために、早くから社会的自立を求められる。教師は、そのために、つながる体験、自分自身との対話、人という在り方、高いコミュニケーション能力を、3つの役割をもって、身に付けさせる責任がある。自分の頃と比べると、相当にきついけれど、きつい社会だから、学校も相対的にそうならざるえなくなっている。

学校に社会を変える力はない。でも「ある」と信じたい。

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