アーティストにとって英語とは
みなさん、こんにちは。
イングリッシュマン・イン・ニューヨーク福田です。
あまり人に話していないが、私は小学一年生から五年生までは、父の仕事の都合でイギリスにいた。小学校六年生からはずっと川越だから、川越のみんな、安心してくれ。私の地元は紛れもなく川越だ。
という訳で、私は世間一般でいう帰国子女である。
よくあるパターン。
福田「イギリスにいました。」
多数の人「英語ペラペラだね。」
完
いや、待て待て。
福田のイギリスでの体験はペラペラの薄っぺらいものではないぞ。
そもそも、帰国子女というだけで、世界で闘える英語がしゃべれる日本人像を求められることに違和感を感じる。
そして、意識高めの社会派アーティストのみなさんは、日本とイギリスの教育システムの違いに着目して、日本のシステムをディスっていくスタイルをとったりする。
しかし、私にとって、大人たちが興味関心を寄せる、英語がしゃべれることも、システムの違いなど、ものすごくちっぽけなことである。
私にとって、イギリスでの小学校生活のリアルは、月曜朝の校長先生の説教と沈黙の礼拝、先生から出された課題をアンビエントミュージックを聴きながらこなす時間(イギリスではあまり生徒に教えず、課題だけ出す)、一本の蝋燭の灯をみんなで丸く取り囲んで感想を言い合う謎授業、数少ない学校行事の中で唯一の楽しみである、体育館を使ったディスコ、休み時間に曇り空の下、芝生の上、一人で作るお花の首飾り(自身への弔いの意味)、夕方に聞こえてくる刹那的な教会の鐘の音色である。
なので、友達がいなくて自殺願望が強かった福田は、友達と英語で話した記憶がない。英語は理解するもではなく、ただただ感じるものだった。
絶望的な小学校生活での唯一の救いは、美術の授業でカメラとphotoshopを使って、自身の顔の部分を画像加工で潰して「アイデンティティの喪失」を表現した自画像が先生に褒められて、その作品が廊下に飾られたことである。Shoheiは天才artistだと言われて嬉しかった。デジタルアーティスト福田の原点である。
日本に帰国すると(私にとっては、毎日が緊急来日でありむしろ出国子女だが)、とりあえず英語がしゃべれる日本人を目指せばよいので、ある意味精神的に楽だった。
なので、まずは英語を感じるのではなく、理解しなければならないので、親に頼んで中学のときは、塾に通わせていただいた。英語をみっちり文法から学ぶのである。私は、日本は左脳の世界だと割り切っていたので、ある意味楽だった。親に帰国子女の私が英語の塾に通うのは、金をドブに捨てるようなものだと馬鹿にされながらも、私は通い続けた。
そのモチベーションは、英語の勉強をすることはもちろんだが、何よりも塾に通う仲間達と一緒に切磋琢磨することに意義があった。正直、学校はいじめ、不登校など勉強どころの騒ぎではないので、塾という名の自己啓発セミナールームで、安心して勉強することが唯一の救いだった。塾とは承認欲求を満たす場だと今でも思っている。
しかし、家庭の事情で仲間達が塾を辞めていくことがあり、切なかったしモヤモヤした。
その中でも、私の大切な居場所である塾を、親に辞めさせられないために必死で勉強した福田は、いわゆる進学校の高校に進学したが、なんとなくこの社会に憤りを感じており、合格した日も親は泣いていたが、私は素直に喜べなかった。きっと、このときから、福田は将来、血気盛んな社会派アーティストとしてデビューすることが確定していたのだろう。
最近は、友達の抽象画の絵を外国の方が観る機会があり、それを福田が英語で説明したりすることがあったが、取り敢えず絵を観てくれである。正直、英語が通じることよりも、作品が通じることの方が何倍も嬉しい。
通じているかどうかは、相手の目を見ればわかる。アーティスティックマインドがある人は、国籍問わず、相手の実存に迫ってくる鋭い目付きをする。言葉が通じていなくても、通じている証拠である。あの目を見るために福田は生きているのかもしれない。
という訳で、帰国子女系アーティストのみなさん、cool Japanで日本人アーティストとしてのブランディングもあり、自分がいた国の世界観を表現するのもあり、福田みたいに国籍不明の抽象画で裸一貫で勝負するのもありなので、自分の生きる道を見付けてくれ。
帰国子女も生きやすい世界を願う福田でした。
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