【日本全国写真紀行】48 福岡県福津市津屋崎
福岡県福津市津屋崎
「津屋崎千軒」ー海運で栄華を極め、塩で九州を支えた町
津屋崎という美しい響きのこの町は、町の西から北にかけて玄界灘に面した風光明媚な土地で、古くから筑前を代表する港としてにぎわっていた。江戸時代には廻船業の拠点として栄え、その繁栄ぶりは家が千軒もひしめくようだったことから「津屋崎千軒」と呼ばれた。当時、家が千軒も並ぶほど栄えていた港町は、福岡の芦屋千軒、下関の関千軒と津屋崎の三カ所だけだったというから、その隆盛ぶりが伺える。またもう一つ、津屋崎の名を九州じゅうに知らしめた名産品が「塩」である。寛保元(1741)年、讃岐から商用でここを訪れた大社元七が、津屋崎から勝浦につながる海岸の荒れた様子を見て、福岡藩に塩田開発を申し出た。藩から許しを得ると、讃岐から家族と一族郎党を呼び寄せて開発を始め、2年後の寛保三(1743)年に塩釜を立てて製塩を開始した。
この塩田は総面積約40ヘクタール、産塩高約五万石(約9トン)という大規模なもので、従事者約四百人、塩商人約百人という大事業となり、名実ともに九州一の塩田に育っていった。藩はこの功績を讃えて、大社に浜庄屋脇差乗馬御免の待遇を与えたという。
「津屋崎の粗塩」は味噌・醬油・漬け物などの博多の味に欠かせないものとなり、江戸期は筑前の製塩量の90%以上、明治期にも県内の三分の一を賄っており、「津屋崎は塩で保つ」ともてはやされた。
こうして津屋崎は海運の拠点として、また塩田の町として、明治から大正にかけても繁栄が続いたが、やがて陸上交通の発展に伴い、また塩の専売法施行などにより、次第にその勢いを失ってゆく。そして昭和46年、ついに塩田は廃止された。
栄華を極め、豪壮な邸宅が軒を連ねた町並みも、残念なことに江戸時代からの度重なる大火でそのほとんどが消失。現在の津屋崎の町には、当時の面影を残す建物はあまり残っていない。だがそんな中でも、創業140年の造り酒屋「豊村酒造」や、元藍染屋の上妻家(現在は津屋崎千軒民俗館「藍の家」)など、歴史的に価値の高い往時の建築様式が見られる重厚な家屋が数軒残っており、その一帯の町並みは今もかなり見応えがある。
現在、町ではボランティアの方たちが町並み保存に力を入れているようで、民俗館や町おこしセンターを開設して観光客誘致や地域文化の交流活動を行なっている。こうした地道な努力が報われるよう、これからも応援していきたい。
※『ふるさと再発見の旅 九州1』産業編集センター/編 より抜粋
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