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【日本全国写真紀行】 25 千葉県夷隅郡大多喜町
取材で訪れた、日本全国津々浦々の心にしみる風景を紹介します。ページの都合上、書籍では使用できなかった写真も掲載。日本の原風景に出会う旅をお楽しみいただけます。
千葉県夷隅郡大多喜町
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天下の勇将本多平八郎忠勝が築いた美しい城下町
大多喜町の歴史は、安土桃山時代末期の天正十八(1590)年、徳川四天王の一人・本多忠勝が十万石で初代藩主となり、大多喜城と町を整備したことに始まる。忠勝は十万石にふさわしい城と城下町の建設をめざし、城の南と東に武家屋敷を、その両側に町人町をつくり、夷隅川の川沿いに二十あまりの寺院を配した。これは、いざというときには侍たちを寺に配備して城を防御させるためだったと伝えられる。
本多忠勝は、通称平八郎。徳川四天王、徳川三傑、徳川十六神将などにも数えられる家康随一の忠臣である。この人、忠義の人というだけでなく、十三歳で桶狭間の戦いの前哨戦に初陣して以来、生涯五十七回に及ぶ合戦で、度々武功を挙げながらかすり傷ひとつ負わなかったといわれる天下無双の勇将だった。忠勝のこの強さは、天下取りをめざす家康にとって、掌中の宝でもあり、最後の切り札でもあった。
その忠勝を、家康が房総半島の山奥に配したのは、安房館山の里見氏の攻撃に備えることが目的だった。だが関ヶ原の戦いで家康が天下を統一すると、世の中は長い太平の世に入り、大多喜も軍事拠点としての目的は失われる。慶長六(1601)年、忠勝は伊勢国桑名十万石に移され、大多喜は忠勝の次男・忠ただ朝ともが別家五万石で引き継いだ。本多家以降は度々城主が替わり、最後には三万石にまで下がったが、それでも安房地方において大多喜が政治・経済の中心地であることは変わらなかった。
※『ふるさと再発見の旅 関東』産業編集センター/編より一部抜粋
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