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匿名掲示板の名も無きマジシャン

 今から二十年ほど前、スマートフォンもSNSもなかった頃のこと。

「名も無き友達が野球のチケットくれるって!」
 夫が興奮気味によくわからないことを言ってきた。
「名も知らぬ友達が?」
 私は夫の発言を繰り返したつもりだったが、間、髪を入れず訂正された。
「名も“無き”!!今日のライオンズ戦行けなくなったからくれるって!H駅の公衆電話の横の電話帳にチケット挟んでおいてくれるって」
 詳細を説明されてもよくわからないことに変わりなく、伝聞ばかりで胡散臭さが増しただけだった。

 夫の言う「名も無き友達」とは、インターネット上の匿名掲示板に集まる「名無しさん」達のことだった。当時心身の不調により職を辞した夫は、家のパソコンで名無しさん達と交流することを楽しみとしているようだった。その「名も無き友達」の一人が野球のチケットをくれるというのだ。そして「H駅」とは、東京郊外に住んでいた私達の最寄り駅だった。

「早く行こう!」
 珍しく行動的な夫と共にH駅へ向かった。指定された公衆電話を見つけ、傍らに置かれた黄色く分厚い電話帳を夫がパラパラとめくった。果たして、そこには野球のチケットが、ちゃーんと挟まれていた。私達はマジシャンに指名されてステージに上がり、すっかり騙された観客のように驚き、喜んだ。そんな私達の様子を、名無しさんはどこからか見ているのかもしれなかった。

 私達は西武鉄道に乗り、西武ライオンズの試合を観に行った。森の中の巨大な東屋のような西武ドームは吹き込む風が心地よく、その日のその空間をたまたまご一緒することになった野球選手や大勢のお客さん達を不思議な気持ちで眺めながらビールを飲み、焼き鳥を頬張った。

 そんな場所に私達を運んでくれた名も無き友達にも、何か楽しい魔法が訪れたことを願う。

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