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謙遜って、時に自己満足なのかもしれない

日本人の美徳の一つに「謙遜」がある。

「私はこんなに能力があります、私はこんなにできるんです」ということをバンバン前面に出さず、控えめな態度で振舞うことである。

最も謙遜が見られるのは、人に褒められた時の態度や返しである。

日本で生まれ育った私には謙遜はとてもしっくりくる習慣で、それはもう呼吸をするように、ごく普通の反応としてプログラムされている。

誰かが自分の何かを褒めてくれた時、どのようなことを褒めてくれたのか、相手との関係・状況にもよるが、大抵「いえいえ、そんなことないですよ」「自分はまだまだです」という反応をする。すると相手も「そうですか、いやいや」といった形で円滑に会話が進んでいく。自然なことである。こういう時の謙遜は日本人にとってコミュニケーションの潤滑油のようなものだ。

冷静に考えれば(一部の人を除き)何事も上には上がいる。私は元々「人生とは(他人ではなく)時に弱い自分自身との闘いだな」と思っているところがある。人に褒めてもらえるのは嬉しいが、元来こういうマインドセットなので「現状で得意になってはいけない。気を引き締めてしっかりやっていきたい」と謙遜の返しをするのは、自分には無理なく違和感のないものだ。

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大学生の時、交換留学で1年間ヨーロッパのある国にいた。オーケストラで弦楽器を弾いていたので、その練習を寮でしていたところ、フラットメイトの米国人がキッチンで顔を合わせた時に、「あなたの楽器の演奏素敵ね」と声をかけてくれた。

楽器自体はかなり小さい頃からやっているので、正しい音程や美しい音が何なのかはわかっているが、本当に上手い人は底知れず上手く、自分は全くそういうレベルではない。

そこでいつものように、「いやいや、全然まだまだなんだよ」という返しをしたところ、相手が明らかに

キョトン

としてしまった。その衝撃が強すぎて、その後どういう風に会話を終えたのか全く覚えていない。でも明らかにすごく変な空気になってしまった。日本で普通その後にある相手の反応が続かず、私としても階段を踏み外したような感覚だった。

相手は本当に私の演奏が上手いと思って賛辞を贈ってくれたのに、私が謎に己の至らなさを話したことで「??」となったのだろう。

               ♢

それで気が付いたのだが、謙遜は時に自己満足かもしれない。

日本では、どのような程度で褒められたとしても、謙遜の姿勢で返して変な空気になることは経験上はほぼない(卑下は別)。しかし、海外では国によっては褒めることへの返しの相場観も違うわけで、それに沿っていないとなんだか変なことになってしまうこともある。

当時は日本にしか住んだことがなかったから、何も考えずプログラミングされた通りの反応を返してしまったが、相手が自分のことを褒めてくれた気持ちは有難いものなのだから、私としては相手に嬉しい返しをしたい。迎合するということではなく、褒められた場合の返しということであれば、それが相手への敬意の表し方かなと自分なりに思う。

この場合であれば、「ありがとう!」と満面の笑みで返した方が自然だっただろう。自分の演奏は本当に全然そんなレベルじゃないから、そういう反応をすることがおこがましいと思ってしまう自分がいたとしてもだ。

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ただ、もしその時既に海外では日本のような阿吽の呼吸の謙遜がないことを肌感覚で理解していて、他の反応の方が相手にとって嬉しいものであったと思われたとしても、日本的謙遜の言葉を返す方がやはり自分にはしっくりくるだろうと思った。

なぜだろうか?

それはその謙遜の言葉というのは、もともと相手の賛辞に対する反応や敬意というよりも、むしろまだまだな自分のレベルを認識し驕らない姿勢を取ることによる自分自身への安心感(おこがましくない)のためなのかもしれないと気付いてしまったからである。

そうであるとすれば、時に謙遜というのは自己満足なのかもしれないなと思った。

日本人の自分としては概念的には本当に腹落ちしているので、そういう感覚は普段は全くないのだが。

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