印象と評価
私の中に湧き上がる 醜い感情と偽善の心 の戦い 幼少期、自分は「特別な存在」だと思っていた。親も自分の子供はかわいいからかそのように私を扱ってきたし、根拠はないが揺るがない自信を持っていた。 上京したことやSNSを常用し始めたことをきっかけに、上には上には上には上には× n回 自分より優れている人がいることを知る。
顔、体型、就職先、服装、髪型、匂い、大学名 あらゆる指標で人は他人を推し量り、数秒間で印象を抱く。 他人が自分に対して何かしらの印象を抱いているように、私も他人に対して様々な印象を抱く。そして自分が他人に抱く印象は操作できるものではない。誰かに対して悪印象を抱いたとしても、いい人ぶって否定したらそれは本当の気持ちではなくなる。 ----------------------------------------------------------------- 一緒にお茶をしていた人が窓の外を見て、「みんなGUばっか着てて、ほんとダサいよな」と言った。 恐らく彼は、みんなが同じブランドを着て没個性的な状態がダサいと言いたかったのだろう。彼は自身のファッションに個性を見出している人間である。 喫茶店の外でGUの服を纏った彼女は「ダサい」と判断されたらしい。でも、もし彼女がファッションに重きを置いておらず、服を探す時間やお金や手間や脳みそを使うくらいなら別のことに対してリソースを使って自分の個性を確立していたとしたらどうだろう。
とてもかっこいいと思う。
何に興味があるのか、どこに重きを置いているのかは自分自身が決めることであり、自分と同じものに重きを置いていない人がいたとして、その人に「ダサい」という評価を下すことはナンセンスだ。
----------------------------------------------------------------- 他人に抱いた悪印象を取り消すことはできない。けれど、印象なんてたかが「印象」なのだ。 印象に頼り切って即座に評価を下す人より、印象のちっぽけさを認識して想像力を働かせられる人間になりたいし、中身を知って人を評価する人間になりたい。