「狂ってる」と評判の映画「君が君で君だ」の感想文
企画、プロデュースを担当されている阿部広太郎さんのツイッター経由で知った「君が君で君だ」。どんな映画なのかなと思ってツイッターで#君が君で君だをタップすると、「面白い」などの感想もあるものの、「狂ってる」「狂気の沙汰」などポスターのビジュアルからは想像できない感想が書き込まれている。予告編を見ると「ふむ、どうやら韓国の女の子をストーカーしてその過程で尾崎豊やブラピや坂本龍馬になるんだな」ということが分かるのみ。主演が激アツ俳優池松壮亮様ということでこれは観に行くしかないと思い、新宿バルト9に向かった。
私は絶対的悪があって、それをやっつけてハッピーエンド!っていう映画より、いろんな対立軸がある方が好きで、「君が君で君だ」はまさにそれだった。
尾崎豊、ブラピ、坂本龍馬の3人の10年間におよぶストーカー生活が崩れ始めるところから物語は始まる。
ヒロインの姫にハンカチを貸してもらったことがきっかけで姫の笑顔に虜になるブラピ。「こんなに人を好きになったのは初めてだ」とその後尾崎と坂本を巻き込みながらストーカー生活を始まったのだった。
姫と同じ時間に同じものを食べ、同じ時間に排泄し、姫の写真を撮り、姫が捨てたゴミを拾ってコレクションにする。3人があまりに楽しそうに、生き生きとストーカーをしているものだからこれが犯罪行為だということも次第に忘れてくる。この瞬間から常識や倫理や社会規範の感覚が麻痺し、全身麻酔をかけられたような気分になる。
そんな楽しい生活が崩壊し始める。ひょんなことから姫のヒモの借金取りに見つかってしまうのだ。ここで、3人が守ってきた盲目でひたむきな国に、冷静で”常識的な”第3者が入国する。ヒモも入国する。姫を「遠くからずっと見守る人々」「そばで搾取する人」「何も知らないけど”常識”のある人々」が集まるのだ。
外部からの影響を受けたことにより、10年間仲良く「遠くからずっと見守る人々」をやっていた3人も、実は同じベクトルを向いていたわけではないことが浮き彫りになってくる。姫の元彼である坂本龍馬は国での軟禁を解除されたら「遠くで見守る人」から「寄り添いたい人」に変身したし、ブラピも「俺もうやめるわ」と国を出ていく。
3人の違いが一番明確に表れていたのは、姫が首を吊ろうとするシーンだと思う。ヒモが「あれ、助けに行かなきゃいけないやつですよね?」と慌て、助けに行くために国を飛び出そうとする坂本を「姫が決めたことなんだぞ!」とブラピが押さえつける。極めつけに、「かわいいじゃん、追い詰められてる姫も。」と尾崎がつぶやく。姫の近くにいた経験があるヒモと坂本の価値観が近づき、ブラピと尾崎との間に乖離があることも分かる瞬間である。
見守ることが愛、汚い部分も含め全部受け入れるのが愛、そばにいることが愛、意志を尊重することが愛、命を守るのが愛?本当の愛ってなんなのか、分からなくなってくる。
映画を観ながら思い出したのは、自分のジャニヲタ時代だ。盲目で、お金も時間も彼らにつぎ込み、ちょっと頑張れば付き合えるんじゃないかなんて妄想したりしていた。 今思えば恥ずかしいけれど、例え自分に返ってこなくても愛する人がいることが生きる活力になっていた。しかしそれは中身がない空っぽな張りぼてを愛でているようなものだ。二次元なら尚更だが三次元でもその人の中身までは分からないし、それは結局その人自体が好きなのではなくて、その人を好きでいる自分の生活が好きなだけだ。
そのこと自体を否定するわけではない。ただ度が過ぎると生活が滅んでいく。
映画の中の世界は、とても極端だ。彼らはブラピの親からの仕送りで生活していたし、友枝が「俺はハンパでいいや」と言ったのに対しほとんどの観客が賛同するだろう。ここまで極端ではなくても、私のように同じような経験をしたり、同じような想いをしたことがある人はいるのではないか。ストーカー、ピンサロ、借金、ヒモ…激しくて目をそむけたくなるような、自分には関係ないことが題材になっているようにみえるが、抽象度を上げたら、3人は多くの人に共通する部分があるんじゃないかな。そう思いながらおうちに帰りましたとさ。
正直、一回見ただけでは監督や役者などの制作側が伝えたかったことが理解できなかったし、何回見ても本当の意図は汲みきれないかもしれない。だからこそ何度も観ていきたい映画だと思った。
カバー画像引用元:https://eiga.com/movie/88426/