「自意識過剰人間」
新幹線っていいですよね。
1番好きな乗り物かもしれない。新幹線の中で文章を書くのがすごく好きでめちゃくちゃ捗るから好きです。
さてさて、私はなにを隠そう「自意識過剰」である。
自分はちゃんと色々なことを理解し、客観的に自分を見つめているので愚かな真似はしない、と賢者ぶっている自覚がある。
自意識過剰とは、自分の言動が誰かに嫌な思いをさせてしまうのではないか、周りにどう思われるかが気になってしまうということだ。
人生の先輩、オードリーの若林は自身のエッセイやラジオの中で、「スタバでグランデというのが恥ずかしくて頼めない」だとか「初めての合コンで春日と俺は女の子の前でご飯を食べるのが恥ずかしくて全然食べられなかった」だとか、「朝井リョウが家に遊びに来るときに、朝井リョウの著書をかためて置いていると、大切にしているアピールだと思われそうだからわざと散らして置く」だとか、なかなかの自意識過剰エピソードを披露しており、すべてに共感はしなかったもののひどく親近感を覚えたものである。
そんな風に生きていたら、自分の自意識過剰さに辟易してしまった時期があった。客観的に生きていると主観が必要とされている場面でも冷めた目で物を見てしまったり、やりたいことがあっても勇気を振り絞って踏み出すことができないという弊害が出てきたからだ。
でも今また改めて見つめ直すと、自意識過剰であることにメリットもあるなと思う。
自意識過剰になるということは、他の人についても意識過剰になるということだ。「ああ、今この人こんなこと言ってるけど、ほんとはこう思っているんだろうな」「きっと今気まずいんだろうな」
その気持ちが痛いほどわかる。当事者性がすごい。(もちろん誤解しているケースもたくさんあるだろうが)
すると、気まずそうにしている人、見栄を張っているけどほんとは不安なこと、そういうのがビシビシ伝わってくるので、「やーい、虚勢張ってやんのー」とは思えなくなる。だって自分もそうだし。 そうなると、そういう人を馬鹿にできなくなる。それに苛立つことなく人間らしくてかわいいなぁと受容できるようになる。
なので自意識過剰は苦しいばかりではなく、精神衛生が非常に良い状態で生きられる気がするのです。 そのために色々なことを言語化することはとても有効だと思うので、継続的にnoteを更新できればなぁと思っていたら名古屋に着きました。
おしまい