永井均『遺稿焼却問題:哲学日記2014-2021』

別のしかた?

 タイトル通り、永井均の2014年から2021年までのツイートを編集した本。もう1冊、『独自成類的人間』が今月末に刊行される予定らしい。

 永井のTwitterのbioには「私が何を言っているのか理解したい方は、まずは近年の主著である『世界の独在論的存在構造-哲学探究2』(春秋社)からお読みください。これら拙著における議論を前提にしたことを呟きますので、読まずにリプライ等をしないようにお願いします。」と書かれている。今まで読んだことがあるのが対談本かつ永井入門的な『仏教3.0を哲学する』だけなので、何が問題になっているのか理解できない箇所も多い(「もう老い先短いので、どちらかと言えば、全く理解されなくても、誤読されないように書くべきだろう。読者を啓蒙する必要は全くないので、むしろ余計な読者に読まれないように気をつけないといけない」(223)と書いている。これはtwitterに関することではないかもしれないが)。

 わかりにくさのゆえんはTwitter本であることにあり、1ツイートが1段落という本の形に落とし込まれているわけだが、その構成は通常の語りともパラグラフ・ライティングとも異なる。2段落は1段落への注釈でありながら本文であるような流れ方をし、リプライや引用RTはインタビュアーや対談司会者のような形式で組み込まれている。同じ話も当然何回も出るし、botに応答しつづける最終章は正直ちょっと退屈だ。

メタフィジカル・センス

 とは言っても(当然)さっぱり分からないばっかりではなく、まずは哲学的思考入門(≠哲学史・哲学概論)として読めるようにもなっている。キャッチーな言い方では、世界の骨組みに対する感覚がメタフィジカル・センス。世界に似合った服を着せるのが文学である。哲学は抽象化し、文学は象徴化する。映画では『君の名は』が骨組みを露呈させる=現実のある側面を抽象的に描いた=肉や臓器まで剥ぎ取って骨格をあらわにする作品であり、『天気の子』は現実のある側面を象徴的に描いた作品ということになる。

 骨組みを露わにするためには、問いが必要なのだと思う。

しかし、こういう場合、良問と言うのはやはり少し変だな。人生が(苦痛というわけではないけれど)どうしても面白くなくて、生き続ける気がしないのだが、そんな理由で死んでも言いのだろうか? と問われて、それは良問だ、と言うのが(真実であるとしても)変なのと同じ変さ。(24)

哲学はそのような良問の集積であると言われる。問われれば、それを精緻化したり、このように言うことも可能か、ということを考えたりする。リプライ相手に対する返事からもそのプロセスがよく分かる。

哲学とは決して「名言」の寄せ集めではなく、「アーギュメンテーションの過程の中」にのみある、というは強調すべき真実だが、・・・答えは多分、哲学は「アーギュメンテーションの過程の中」にのみあるのではなく、恐らくはそれ以上に「直観的な洞察の中」にあるからだろう。その洞察の意義をアーギュメンテーションにおいて優れた他者が理解できるとは限らない、ということこそが哲学の本質だろう。

というのは、

 この文の意味が理解できないという人がいる。「彩られる」が曖昧で「度」が専門用語だからだと。しかし逆に、この文が言おうとしている内容を多少とも考えたことがある人なら、その理解の側からこの二語の意味も推定できるだろう。そういう理解の仕方ができれば、理解できない哲学書などなくなります。(112)

それとは別に、

文章の巧さというのは一種の政治力のようなものだろう。その文が意味していることとその文によって成し遂げられることの差異をつねに意識していて、さらにその差異自体が成し遂げてしまうことまでも意識できて、それらをコントロールできる才能のようなものかな。(156)

遺稿焼却問題

 カフカに焼いてくれと託された遺稿を本当に焼却すること……には恐怖を伴う崇高さが感じられる。という問題。これは、誰にも知られずに生きる人生という問題にも接続する(というか同形?)。重要な気がするが、何もコメントできないのでスキップ。

トランス

 トランスジェンダーが何度か話題になるのだが、これは思考の明晰さによって知識や想像力や経験といったものが不足していても他者についての理解らしきものに辿り着けるちょっと感動的な例なのではと思う(もちろんその理解が各当事者の実感に合うものかどうかは別の話。尚私はトランスではない)。人々の様々な偏見をなくすのに一番よい方法は頭をよくすることだと、多分言える。もちろんある仕方で色々な可能性を並べられ、分析され、ある用語で記述されるといった仕方が不快であり、自分がそのように言うところのものがアイデンティティだと(性自認に限らず)いう立場も当然ありうるとは思うが。

その他にも振舞いや言葉遣いなどの重要な外的表出形態があり、さらに性器や指向対象も客観的な分類だけではその「使用法」までは特定できないからだ。ゆえに、性自認は単なるクオリアではない。
 それゆえ、男性器を持ち女性に性的魅力を感じるがそれは自分を女性と自認したうえでのことだということが客観的(間主観的)に成立可能となる。相手の女性からはもちろん、場合によっては善意の第三者からも。
・・・
<――文法的に「男性」は感覚(内観)を名指す概念ではないという点で・・・「男性」を感覚や内的状態を指すために用いている人は、概念の使い方を誤っていると指摘されることを免れ得ないように思います。>
 たとえ概念の使い方を誤っていると言われてもどうしてもそう言いたい(言わずにいられない)という場合があるに違いないと思います。(pp. 58-59) ※<>内はリプライ

宗教/マインドフルネス

 私は色々と救いがほしい(放っておくと不幸せでもないのに勝手に不幸せになってしまう)人間なので、信仰のことをよく考える。そういえば母親からも「自分の、自分だけの神様を自分の中に持つがよい」と言われて育ったのだが、ここで語られているのは歴史ある宗教的実践よりも、より本質的な、というか体当たり的な、というか、「言われたとおりやってればある程度いける」みたいな何かでなくて、自分が、本当に自分がそこに辿り着くための方法や考え方について、であるので、難しく、かつ重要。これは哲学への姿勢にも全く共通で、永井は哲学することと、哲学の研究をすることをはっきりと区別している。

 宗教については、「神はこの私に何を求めているのか」の章に詳しい。マインドフルネスによって人間が「よく」なるのは道徳的に善い振る舞いをするようになるということではなく、「天気がいい」というときの「よさ」を得られるのだという。やっていきたい。

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