「気密」のこと、あるいは緒川那智のこと
緒川那智の最新20首連作「気密」が、『つくえの部屋』という雑誌の第3号で読めます。読もう。下記リンクから申し込めます。https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLSdc3Q2sK1yAryrE5Dfsoa4KyMMZLTW96SAI6mzmMLO-DQFGfA/viewform
神大短歌にいた数年間、緒川の歌をずっと読んできたし、互いに批評し合ったりしてきた。だから緒川の歌を緒川自身を思い浮かべずに読むことは難しい。それは歌を読むのにそんなにいい状態とも思われないんだけど、それでも敢えてなんか書くとしたら、私は緒川の人の想い方が好きなんだと思う。
ちがう皮膚ちがう身体の境界をやわらかな手がすべる どうして
たぶんこれは共感できる人が極めて多い感傷で、ひょっとするとプラトン以来みんなが思っているのかもしれない。でもなんやかんやで私たちはひとりひとつの個体としてあって、どれだけ近くで触れ合っても溶け合うことなんて出来やしない。分かっているけど、どうしてって思う。一つになれないこと、誰かが誰のものでもないことをこの人はわきまえていて、だから少しさみしい。
そんな情動を描いているかと思ったら、緒川の作中主体はびっくりするほどしょうもないふざけ方をする。誰かのためにペリーの物真似をしたり「きみ」の背中に「すし」とか「だいず」とか指で描いて毎回ウケたりして。いつだって楽しませようとしている。主体はそれが自分にとっても楽しいことなのかを語らない。そこに何かを読み込みたくなるけれど、誰かに対する愛しさだけが読者に委ねられる。
ときどき余計な心配をしたりもする。「きみ」が地図のなかに落っこちてしまうんじゃないか、とか。ひとつになれない他者である人は、あるときどこに落っこちるか分からないから。
自分一人だと聞かないような、あるいは意識しないような音を出す、ちがう存在である「きみ」とのあいだを満たしているのはたぶん、生活なのだろう。緒川は生活を、あるいは生活からの逃避を歌に取り入れるのが抜群に上手い。
あのひとの煙草や犬を思い出し少しだけ泣く冬のニトリで
日常と非日常のあわい。生活に密接に関わる場所なのにたくさんの日用品が並ぶそこは生活の場所とは言えなくて、あり得たかもしれない別の生活の起点でもある。ホームセンターの前でベビーカステラを焼いて暮らしたがったりするような、それは微妙な逃避だ。働いて得たお金で遊ぶ、ほんのちょっとだけ日常からはみ出る。
就活なんてしないでほしい、と詠っていた人も、頭痛薬を飲んで仕事をしてるんだね。どうしたって一つになれないこと、生活から逃れられないこと。そんな諦めと、恋や性に揺すぶられることとのあいだで緒川の歌は生まれている。
なお、この文章のなかに出て来るよくわからないフレーズ(があるとすればそれ)は緒川那智の他の作品へのアリュージョンなので、これまでの作品を読み返してね。『神大短歌』、『かんざし』あたりを買おう!
それと、ペンギンの写真を使ったのは訳があるんだけど、この連作を読んでいただいたらわかります!
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