遠藤麻衣・百瀬文「新水晶宮」~性器の話でもするか

 東京でだけだと思っていたのが京都でも展示をしているのを会期終了間際に知って奇跡的に滑り込めた。全部通しては見られなかったけど、遠藤さんと百瀬さんがお喋りしながら新しい生殖器の形を泥をこねて考えるという映像作品で、後ろではなにかつくられた生き物の交尾らしき場面が映し出されている。

 そびえ立つものを作るのが楽しい百瀬さんと穴を掘って隠すのが楽しい遠藤さんが、快楽のためにも生殖のためにも使いうる器官をこねながらファリックなものや雌雄のような二項対立と近づいたり離れたりしているのを見ながら私がした方がいいのはこの作品についてとやかく言うことではなく(だって言うことなんかもう言われているんだし)性器について話すことだと思った。

 でもじゃあ、となると性器について何をどんな風に言えばいいんだろう。私は膣の中が柔らかくて暖かくて息さえできるならその中で一生を過ごしたいくらい好きなんだけど、そうすると理想の性器は現行の膣ということになってしまう。でもその自分を包み込んでくれるようなものに対するフェティシズムは性器に限らず消化器官全体にもアナロジー的に繋がっていて、ボアカフェの話をしたかどうか忘れたけど、生き物に丸呑みにされることには強い快楽がある。だから柔らかくて大きな体と広いベッドの間に挟まって外側がなくなって息苦しいのが好きだ。

 人のアナルに指を入れていたら自分が喘いでしまうような馬鹿としては、それがもっと全身的であれるような、消化器の延長ででもあるかのようで、そして全身的であるからには2体であれ3体であれもっとたくさんであれ、参加するどの生き物も余すところなく入り合って誰もが子を孕むようななにかを性行為の理想として持っている気がする。

 あまりうまく性器の話をできなかった。やっぱり粘土をこねたりするほうがいいのかもしれない。

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