無造作に扉を開くように~中沢けい「入江を越えて」
自分の話からアプローチするほかないような仕方で小説を読んでいいだろうか。
この人と上手くすれば一緒に布団に潜り込むことが出来るのではないか、と画策している時間。もしかしてあの言葉は、仕草は、余儀なくされたかのような接触はもっと他の意味があったのではないか、という不確定性。どうとでも取れることに対する期待が蓄積していって、ドキドキしっぱなしの暫く。それが誰かとの関係のなかに占める割合は、年を経るごとに小さく小さくなっていく。それはこういってよければ青春の名残だから。たとえ何か決定的なことを言うまでの10秒くらいしかそれが無いんだとしても。
「不思議で得体の知れない約束」。図書委員の合宿で、バイクを持っているから前乗りして買い出しをしておくことになった稔に合わせて苑枝も一日早く行くという、同級生のセックスをうっかり見てしまい、それを「あんなこと」という言い方でだけ話していた二人の約束だから、なにもはっきりしたことが言えない。
そのように考える苑枝は、稔からの好意と読み解けるいくつかのことを、おそらく読み落としている。たとえば誰かに断られたからといって一緒に行った映画のこと。
しかし読者の誰もが知っているように、稔は迎えに来る。何度も駅を覗いていたことも、そのために服を新調したことも、多分そわそわして槙の実をむしっていたことも、彼らに対して大人であるしかできない読み手は知っている。
苑枝がそれらのことに取り立てて意味を見出さないのは、そうしてしまえば誰かの欲望によって(のみ)起動される、汗臭い言い方をするなら「少女から女になる」ような物語が動き出すからだ。破瓜によってその先の人生が決定づけられたり、抱かれることで支配されたり征服されたり、あるいは運命的な何かが起きて、なんてことを、彼女ははなから信じていない。そのことは、扉を無造作に開くと出会ってしまう種類の、誰とでも起こりうるようなことだ。
といって、なんでもなく済んでしまうはずでもない。苑枝にとってそれは「確かめる」ことだ。なんとなく男の体を樹木のように違いないとおもっている彼女はそれを確かめたい。その感覚を、目を閉じて樹木の力をきくことを、そうして翌朝目覚め瞬間に生気を放つ瞬間を、自分の体の重さや大きさを確かめた相手の目に何が映っているのかを。
行きの電車で苑枝は線路のかかった入江から海を見る。普段目にする内海とは対照的に盛んな波、その光を。その海の光の印象が、触れ合っているときの稔の樹木のにおいと重なる。波、樹、緑、青、のすべてが混ざり合うけれど、つかの間のことだ。不格好な体をかかえた二人の若い人間にべとついたものが生まれる。
同じルートを通る帰りの電車では、同じ入江をほとんど何も感じないうちに過ぎている。一度きりしか持つことのできない清冽さというものはある。でもそれは、それを契機に身動きのとれない社会関係に巻き込まれていくようなイニシエーションでなくてもいい。
夏休み明けの二人のうち、期待を露わにするのは稔のほうだ。苑枝が校舎から出るのを毎日彼は待っている。しかし自分の目的を整理することのできないまま、からすうりの実を握りつぶすしかできない。苑枝の発した「好きとか嫌いとか、あたしは一言も言わなかったじゃない」という言葉は、それもまた、一番ぴったりと彼女の言いたいことではなかっただろう。「あんなこと」という言い方をもうできないのに、自分がほしいものを名指すこともできない時間を、でもしっかりと小説は留めている。
中沢けい「入江を越えて」『戦後短篇小説再発見①青春の光と影』講談社文芸文庫、2001年。
(初出は『群像』1983年4月号)
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