鴇田智哉『凧と円柱』の空間――提喩の方法

 空間を知覚する方法にはいくつもある。

梨を剝くひびきは部屋を剝く響き

と言われたときに俳句は何をしているのだろうと考えると、それは空間把握の方法論の提示であるようにも思える。半分は、梨を剝く音が室内にほんのわずかに反響する様を読み取りたいのだと言える。しかし半分は、わたしが手に包む梨が同時に私を包む部屋でもあって、わたしが剝くと同時にわたしの周りが剝かれて白いところを晒すような、行為と空間に対する全身性の知識を、読むものをして得さしめるプラクティスとしてこの句はあるのではないか。

靴ふたつその上にたちあがる冬

 包むもの/上位概念によって包まれるもの/下位概念をあらわすことを提喩と言うのであれば、提喩の原理が句集の一つの動脈であるといってよい。というか、冬とか春とか夏とか秋とかいった季節の名称である季語が提喩的なのである。靴の上に立ち上がる何者かなのか、何らかの冬の気配であるかするものは、そのほかの確定記述をそぎ落とされ、澄んでいく。俳句にミニマリズムを見るなら、こういう場所なのだろう。

ひなたなら鹿の形があてはまる

なる条件文は、やはり半分は、何かの加減で鹿のように見えた日だまりのことを教えてくれる、もしくは、鹿のようになってひなたにいたいわたしのことを、ひなたの気持ちよさを言うようにみえる。しかし半分は、これが条件文であるということだ。日照が区切る平面にピースのように形を嵌めること、そのように地面を上から見ていくと同時にあわよくば自ら当てはまっていくこともまた可能なのだとこれは言う。しかし、

ひだまりを手袋がすり抜けてゆく

と感じるときの感覚はむしろ換喩であって、部分へのフォーカスは部分に留まる。

髪切はむらさき色の脚で来る

といった箇所にもおそらく妥当するフォーカスの強さ・被写界深度の浅さは、わたしと対象との媒介されない関係を築こうとする。幾つかの方法によって知られようとしていた空間や地図を破棄した癒着だからこれは提案ではない。わたしの話、なのだと思う。知覚するべくもない非現実もまた。

つはぶきは夜に考えられている

考えられているのは呟きではない。マーガレットに似たキク科の白い花であって、考えられるとは思い出されるとか思い浮かべられるとかとは異なる。考案されているという風にも読めるし、設計され精緻化されているようにも読める。いずれにしてもその「考えられ」は生成のプロセスだ。やがて空間のなかに生じるであろう対象の。

円柱の蟬のきこえる側にゐる

人間の耳は前を向いており、耳のうつわを背中向きにして背後からの音をより多く拾うような操作をできない。普通境界としては思われないし、音を遮るほどの広い面を持たないはずの一本の柱はだから、わたしの体の向きを代理する。そのようにして、より堅牢な知覚が目指される、こともある。

シーソーを冬の装置としてをがむ

ときのシーソーは、見えるsee・見えたsaw(もう見えない)・見えるsee・見えたsaw(もう見えない)の繰り返しであり、円柱の聴野(なんて言葉があるとして)の半分半分にも対応する。季節とは詰まるところ共感だが、そのための装置として――だから、それが無媒介に、適切に写生すれば共感できるかのような前提を問いに付す。

 季節に対する人のなんらかの情緒を喚起することが到達地点として考えられるなら、その方法はまずもって提喩である。それはあなたがいる空間を知覚するプラクティスを含む。

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