「ヤン・ヴォー ーォヴ・ンヤ」展@国立国際美術館
スラックスと赤いセーターの少年が白く細かい砂の上で立ち上がろうとしていて、その黒いスラックスのお尻に砂がべったりとついているクロースアップ。引き締まった体の水着を着た女性がいい天気の砂浜にいるというような商業化されきったイメージを見事に組み替えたような、でも始めからあったにちがいないエロティシズムをとらえた写真(今述べたもののほかに、同じ人物を被写体とするもの数枚)がときおり左右を反転したプリントでたびたび反復される。切迫した場面の描写でありながらおそろしく可読性の低い中抜きのブラックレターで書かれたたくさんのカリグラフィー、フランス語だから私には読めない一枚の手紙、さらにはイサム・ノグチの照明といったものが、マップがなく、作品番号の書かれた小さなキャプションにも欠落の多い展示室の中で繰り返され、たちまち位置の感覚を失ってしまう。
そこには普通の展示では見せられないもの、展示物をかけ、広い空間に順路と仕切りを設けるための白いパネルの裏側、パネルについた何かを剥がした跡、釘を抜いた跡が様々な位置につけられ、多くの作品とおぼしき物体の全てに照明が当たっているわけでもない。それらの空間に仕込まれた数々の痕跡によって、展示室は未完成と、終わった後と、その両方を感じさせる。
ばらばらにして、組み立てること。それは両性具有の獣人であり半神であるものを作ることであもるし、歴史の解釈を行うことでもあるだろう。小さなアポロ神の像が詰められたCarnation milkの木箱は受肉のincarnationを匂わせながら、誰かの持つさしあたり許されない欲望を教えている。それから、キッシンジャーがバレエの手配を喜ぶ短い手紙の16通、解体されたケネディの椅子。
それらはどれもひとつひとつであり、しかし展示の全体を指して「ひとつ」としか言いようのないものでもあって、けれど個々のひとつひとつは更に小さくなりえた。"integrity"を毀損していくものとして、その"個"展は見られた。
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