山口尚『幸福と人生の意味の哲学』
「いや~~~~~生きるってのはつらいですね!!!!!!」
っていう、そう言っている自分をどこまでも外側から見てどこにも立つ場所がないままヘラヘラしてるみたいな態度!!!に対する批判は私の知っているアメリカ文学では90年代に提起されます。しかし何より難しい他者へのempathy(あるていど彼特有の用語ですが)を誰よりも深く考え続けたDavid Foster Wallaceは自殺してしまいました。
人の自殺、とくに、少しなりと知っている人の自殺を知ると、意味の底が抜けたような感覚になります。普段それなりに色々なもので満たしている人生の4つの壁がバタンと倒れるみたいにも。苦しみがある、ということよりも、意味といいうる何か、もうすこし特定するなら、別に死にたきゃ好きなときに死ねばいいんじゃん、がんばる必要とかないじゃん、と思うことになるような状態が怖いと思う。生きている意味/値打ち/甲斐もないのに生きっぱなしの自分、みたいに考え始めると何時間も無駄になるじゃないですか。そういうときにはこの本のことを思い出せばよいと思った。
誠実
まず、すぐれて誠実な書物であると言いたい。誠実という言葉はときと場合によって色々な内容を持ちうると思うけど、ここでは、自分の言うことの外側に出ずに引き受けようとする態度としたい。
書き手の山口尚さんのnoteからも、そのような姿勢は理解することができる。例えば、以下。
あるいは、本文から次のような箇所を引くこともできる。
ふつうに学校で言われるのは、意見と人格を切り離しましょうということです。しかし、ある場面においては、そのような振る舞いが、自分も相手もどこか外側において、揚げ足を取ったりパズルのように命題をもてあそんだりして、結局自分にとって切実だったはずのことを相対化しただけで済んだように思わせてしまう。だからとりわけ、私にとって私が生きる意味とは何かと考えるとき(というか、人生の意味について考えるなら、そのように問わなければ結局どうしようもないのだと思う)相対的な態度は有害でさえあります。
帰依と相対化
でも、人間は相対化してしまう。これが本書の議論の大きな軸になっている事実です。人は何かに夢中になって、大きくも小さい、小さくも大きい悩みをすっかり忘れたような感じになることができる。しかし同時に、「こんなことしてる自分って一体……?」と必ず思う瞬間があるわけです。そしてその「一体……?」を突き詰めていくと、人間はどうせ死ぬんだから意味あることなんて一つもないですね、というニヒリズムに陥るしかない。よくあることですが。
ここで著者は、このようなニヒリズムの矛盾を指摘します。というのは、生の無意味性をことさらに主張するという行為において、そのようなニヒリストは一つのコミットメントを行っているのだというわけです。
そこで提唱されるのが、冒頭に書いたようなものとは別様のアイロニカルな構えです。それは「自己の譲れない価値観の相対性や偶然性の自覚」をともない、状況の変化に応じて新たな「実践的アイデンティティ」を構築し続けるような柔軟な生き方です。全くの狂信でも全くのニヒリズムでもなく、己のありかたを自ら有意味にしていくための姿勢でしょう。
幸福
最後の章はいよいよ幸福についてです。幸福とは、「幸福とはこれこれである」と記述することを拒む、世界の内部的な基準では測ることのできない超越的なものであることが語られます。それは結局、それぞれが自分の生と向き合って生きていくなかでしか訪れてこない。この拍子抜けするような結論を、しかし私は実感として正しいと思います。同時にまた、死ぬよりなかった人に言葉が無意味で、無意味な言葉を伝えるしかできなかったことを悔やみます。
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