
【monopoの歴史3:成長編】世のため人のためではない、「自分が思う通りにやるため」の会社経営
東京を拠点に、ニューヨーク、ロンドン、パリなど、世界各国にブランチを構えるクリエイティブ・エージェンシー『monopo』。
国内外の名だたる企業をクライアントに持ち、世界的な広告賞も数多く獲得している同社は、2011年に2人の学生によって立ち上げられました。
岡田隼と佐々木芳幸。
早稲田大学の音楽サークルで出会った彼らは、どのような人生を歩み、いかにして会社を成長させてきたのか。
共同代表である2人の対話を通じて、monopoの歴史を振り返る連載を始めます。
第3回目は、monopoの未来を変えた起業家との出会いや、自分たちで会社をやる意味について話を聞きました。

monopoでは日本文化の世界発信のサポートにも注力していきたいと考えている。
monopoの運命を変えた、ある起業家との出会い

――eコマースのビジネスからスタートしたmonopoは、どのように事業を展開させていったのでしょうか?
佐々木:eコマースの事業をしているときに、友達から「小澤さんっていうすごい人がいるんだけど、面白い学生を紹介してほしいみたいなんだよね。一回、会いに行かない?」って連絡がきたんです。どうやらネット業界ですごく有名な方だという話で。よくわからなかったけど、会いにいったんですよ。楽天まで。
――小澤さんは、どんな方なんですか?
佐々木:小澤隆生さん(※)という起業家の方で、自分で立ち上げた会社を楽天に売却して、当時は楽天の役員をされていました。初めて会ったときに、僕が「eコマースの実作業付きで、成果報酬でやってます」みたいな話をしたら、「なんか面白いね。筋がいい。エンジニアもいるのか。いいな」って言われて。そこから4日連続で小澤さんと会ったんですよ。野球の早慶戦に連れていってもらったり、友達と飲むから来なよって誘ってもらったりして。
声をかけてもらったのに全部行っていたら、「お前、呼んだら来るよな。いいな」とか言って、可愛がってくれたんですよね。そのうちに「早くチームのメンバーにも会わせろ」と言われて、隼くんを連れていったら「お前はダメだけど、仲間は優秀そうだ。eコマースの事業で、いくらほしいんだ?」とか聞かれて。「20代で10億ずつもらえたらいいですね」って答えたら、「ちょうどいいね。じゃあ、売り先を決めて、20億で買ってもらえるサービスを一緒に作ろう」って言われたんです。
(※)小澤隆生:1999年に創業したビズシークを楽天に売却。楽天野球団取締役事業本部長を経て、Yahoo! JAPANの社長に就任。現在はBoostCapitalの代表取締役を務める。【boostcapital.co.jp】

――小澤さんは、コンサルのような立場でmonopoに関わってくれたんですか?
佐々木:いやいや、メンターみたいな関わり方でしたね。
当時は、ちょうどFacebookの企業ページっていうのが出てきた頃で、小澤さんによると「これからはそこに『いいね』を増やす取り組みにお金が集まるぞ」って話だったんですよ。まず企業のページを作って、次にそこに人を集め、その人たちを魅了するコンテンツを発信するという3段階があって、今は2段階目にあると。アメリカでは、企業ページに「いいね」を集めるエンタープライズアプリやキャンペーンが流行っていて、日本にも同じ流れが来るだろうっていう話で。しかも、立ち上がったばかりのFacebook Japanの方が小澤さんの友達で、今日会いにいくから一緒に来いって言われたんです。
――すごい急展開。
佐々木:その日、靴下に穴が空いていたので、慌ててコンビニで買って履き替えたのを覚えています。すごい人たちに会うからちゃんとしなきゃと思って。
Facebook Japanの方にお話を伺った後に、小澤さんから「じゃあ佐々木、まず懸賞アプリ(※)からやってみよう!お前らの他に、同じような事業を2、3社で作るけど頑張れよ」と言われたんです。そのまま終電に乗って、柏に住んでいたエンジニアの人の家まで行って、「こんなアプリを開発してくれ」と頼みました。「これはいける!」とか、小澤さんの真似しながら説明して(笑)。その場でわぁわぁ言いながらモックを作ったんです。あれは楽しかったなぁ。
(※)懸賞アプリ:Facebookページ上で、懸賞キャンペーンを開催できるアプリ。企業ページの認知を広めたり、「いいね」を増やすためには、懸賞キャンペーンを実施することが効果的な手段とされていた。

――佐々木さんと小澤さんのやり取りについて、岡田さんはどのように見ていたんですか?
岡田:「なんか、すごい人とお知り合いになったな」と思っていましたね。学生起業をする人って、憧れの経営者とか会社があるじゃないですか。小澤さんはネット業界でトップクラスに憧れられている人です。僕は勉強不足で業界のことや有名な方を誰も知らなかったんですけど、会って話してみたらすごく面白くて。そしたら、なぜか一緒にバンドをやることになったんですよ。
――えっ、バンドを?
佐々木:小澤さんが「俺はバンドをやってみたい!楽器弾ける人ー?」とか言い出して。11月に初めて会って、メールでアイデアの壁打ちをしてもらい、12月にはバンドの話をしていました。
最初は「いいチームだから、何かやろうぜ」って話していたんですけど、バンドのほうが先にローンチになったんですよ(笑)。僕らは『monopo懸賞』っていう初めてのサービスを開発しながら、毎週火曜日の夜に代々木の『STUDIO NOAH』で小澤さんとバンドの練習をやっていて。年が明けてすぐに東日本大震災があり、その1ヶ月後くらいにはチャリティーライブをやりました。
――スタジオに入るだけに止まらず、ライブまで。
佐々木:このバンドは小澤さんの声がけで結成されて、学生だった僕らにとっては雲の上の方々ばかりが参加していたんです。チャリティーライブ後も数年にわたって活動は続いて、バンドを通じて出会った先輩たちからは「広告とは何であるか」という考え方や、見積もりや提案書の作り方など、仕事の基礎を教えてもらいました。何度も会社の危機を救っていただいた、monopoの歴史には欠かせない方々ですね。プライベートでも遊び方も教えていただき、10年以上経った今でもお付き合いは続いています。
――単なる遊びの場ではなく、今のお二人の土台を築くような時間だったんですね。
佐々木:あのときバンドに参加していなかったら今のmonopoはないですし、本当に宝物のような思い出ですね。
――バンドをしながら懸賞アプリを開発している間の収入は、eコマースの事業で得ていたんですか?
佐々木:ほぼそうですね。あとは、たまに先輩のベンチャー企業に行ってお願いして小さなお仕事をいただいたり。
岡田:検索広告のコンサルと運用みたいなのもやってたよね。いろんな方にお世話になりました。
――いろんな仕事をやりながらも、それらがすべて上手くいったのはすごいですね。
岡田:上手くはいっていなかった気がします。なんとか食えてはいたけど。
世のため人のためではなく、自分が思う通りに働きたいから会社をやる

――佐々木さんから見た、岡田さんのすごさってどういうところだと思いますか?
佐々木:えー、めっちゃ頭がいいんですよ。隼くんだったら、あれもこれもできるでしょと思わせてくれるっていうか。実際に、やれなかったことが、どんどんやれるようになってるのはすごいなと思いますね。プログラミングとか、英語とか。
岡田:「やれてますよね」っていう雰囲気を出すのが上手いだけかもしれないけど。
――でも、それで相手を説得して、仕事を受注して、ちゃんと納品まで着地させられるってことですもんね。岡田さんから見た、佐々木さんのすごさはどういうところでしょうか?
岡田:すごい勢いで知り合いを増やしていくところですね。
佐々木:(笑)。
岡田:これはすごいなと思いますね。僕もどちらかというと人付き合いは多いほうですけど、佐々木は意外なところで接点を作ってくるんですよ。そのリーチの長さとか幅の広さは、他の人にはないんじゃないかな。
佐々木:恥ずかしいね、なんか。
岡田:でも、恥ずかしいことを喋る企画ですから。
佐々木:確かに。僕が飲み会で誰かと仲良くなって、ひとりで話していても仕事に繋がらないんですけど、隼くんを連れていくと仕事になるみたいな。そんな流れが多かったですね。
――当時からお互いに自分にはない強みがあると思ってたんですね。
佐々木:そうですね。僕は隼くんがいれば大丈夫だと思ってました。食いっぱぐれることはないだろうって。友達は多いほうだったけど、隼くんよりできる人っていなかったんですよ。仕事とは何であるかをまだわかっていないながらも、こんなに優秀な人が一緒に働いてくれるなら、きっと大丈夫だなと。
――岡田さんの優秀さを確信していたのと同時に、佐々木さん自身の人を見る目にも自信があったんですね。いろんな人に会うなかで、人を見る目も養われていったというか。
佐々木:そうかもしれないですね。僕がやっていたことって、ほとんど隼くんの後追いだったんですよ。音楽で稼ぐことも、ビジネスをやってみることも。でも、やってきたことには自信があったんです。結果はまだまだだったけど。

佐々木:大学4年になると、周りの人が内定をもらっていくじゃないですか。そういうのを見て内心ではビビりながらも、「今に見てろ」という気持ちでいました。「こんなやつでも商社に行けるなら、商社も大したことないな」とか思って。それなのに商社の平均年収を調べて、「マジかよ…」って落ち込んだりしながら(笑)。
4月になると、みんな遊んでくれなくなるし、たまに飲みに行ってもスーツを着てくるんですよ。こっちは何にも変わってないから、見下されてるような気持ちになったりして。それでも、「きっと大丈夫」という謎の自信はありました。隼くんと言ってたもんね、「2人だけだったら、別に生活に困ったりはしないよね」って。楽観視というか、ちょっと舐めていたところもあったかもしれないけど。「懸賞アプリがダメでも、またゼロからやり直せば稼げるでしょ」って気持ちはありましたね。
――人に騙されたり、夜な夜なネズミを捕ったり、2人でいろんな経験を積み重ねてきたからこそ、そういう自信が育まれたんでしょうね。
佐々木:今まで話してきたように、最初はけっこうクレイジーだったんですよ。だから、「なんでこんなに頭のいい隼くんが、一緒に一生懸命やってくれるんだろう」って、僕は不思議に思ってて。自分は、それ以外に選択肢がないから飛び込むしかないって感じだったけど、隼くんも一緒にやってくれるんですよ。しかも、そこにめっちゃ気持ちが入っているのはわかっていたから、きっとこの道であっているんだろうなと思っていました。
――岡田さんにも、自分たちのやっていることがちゃんと花開くだろうという自信はあったんですか?
岡田:うーんと、僕が会社をやる上でのこだわりというか、哲学に「世のため人のためにやってるわけじゃないぞ」というのがあって。世のため人のために仕事をするなら、大きな会社に入ったほうがいいと思うんですよ。
僕がなぜ起業したかというと、「自分の思う通りにやりたいから」で。一緒に働く人も、クライアントも、発注先のパートナーも、給料も、オフィスも含めて、全部自分で決めたいんです。世のため人のためにやっていないから、頑張れるし、やり切れるし、自責もできるんだと思っていて。自分にとっては、有名で給料の高い会社に入るとか、社会に大きなインパクトを与えることよりも、「何でも自分で決めていい」という環境がほしかったんですよね。そこに向かっているという意味では、自信がありました。
――人にコントロールされたくないという気持ちだったんですね。
岡田:ベンチャー企業のなかには、世のため人のために仕事をする会社もあれば、誰かの人生を変えたいというビジョンを掲げている会社もあったり、いろんな目的があるじゃないですか。それぞれのスタイルでいいと思うし、何を選ぶかもその人次第ですよね。
僕の場合は、ネズミ捕りでも、Facebookの懸賞アプリでも、今やってるクリエイティブ・エージェンシーでも、何でもよかったんですよ。楽しい人たちとやる。お金をきちんともらう。できれば、たくさんもらう。それ以外にないんですよね。だから、やることはなんでもいいんですよ。今でも、2人で「これやってみない?」みたいな話をしているし。
佐々木:さっきはニューヨークで塩を売ろうって話をしていたし、音楽レーベルを作ろうとか、居酒屋をやろうみたいな話もあったよね。
岡田:普段から2人でダラダラ話してて、翌週にはアイデアに見えた何かは覚えていなかったりもするんです。そういうことをずっと続けていくなかで、やってみたいことが形になったりして。
あとから気づいたんですよね。「こんな毎日を過ごしたかったんだよな」って。だから、あの頃に踏ん張ってよかったなと思っています。
――創業時から、そういう姿勢で会社をやろうという話はしていたんですか?
岡田:そんな余裕はなかったですね。「やべー、口座に数千円しかない」みたいな切羽詰まった日々だったので。
佐々木:「来月いくら入ってくるっけ?それじゃ会社が回らないから、明日50件は電話かけよう」みたいな状態だったよね。
僕も別にクリエイティブ・エージェンシーじゃなくてもよくて。会社のみんなの前でも自信を持って言えるけど、何をやるかにはまったくこだわりがないんですよ。ただ、2人でこんなことやりたいねって話してると、いつも何かが足りなくて。リソースが、時間が、人が、お金が、クライアントが足りない。だから、いつでもやりたいことができるように、とりあえず稼いでおこうみたいな。それがずっと変わらない基本姿勢ですね。今は少しお金に余裕が出てきて、やれることが増えてきたけど、基本的な考え方は変わっていないと思います。
岡田:うん、そうだね。
急上昇からの急落。崖っぷちのmonopoを救ったクラウドワークスの仕事

――懸賞アプリ『monopo懸賞』の開発は、どのような結果になったんですか?
岡田:『monopo懸賞』を作っていたときはクライアントワークで生活費を稼ぎつつ、アプリの開発とサービスを育てることに注力していました。それを1年くらいやったかな。
佐々木:集中してやってたのは1年くらいだね。プロダクト開発、ローンチ、顧客対応とか。monopo懸賞はリリースしてすぐにユニークユーザーが4万人くらいになって、大手からの問い合わせも来たんですよ。ローンチ翌週には買収の提案もありました。1500万円くらいだったかな。
――えぇ、すごい!それは、どういうところが評価されたんですか?
岡田:早かったのがよかったんだと思います。Facebookの懸賞アプリとしては、日本初でしたから。
佐々木:これから確実に需要が出てくるであろうサービスをいち早く出したので、後発の会社は買ったほうが早いと考えたのかもしれないですね。買収については正式に話をもらったわけではなく、興味を持ってもらったくらいだったので、それ以上の話が進むことはありませんでしたけど。
岡田:僕らは20億円で会社を売却するつもりでいたので、「1500万じゃあな」って。
佐々木:だけど、すぐに競合が出てきて、すーっと抜かれていきました。小澤さんが作った会社が伸びてきて、そのまま1年以内に『Yahoo!JAPAN』に売却したんですよ。そのまま小澤さんはYahoo!JAPANの役員になって。すげーなと思いましたね。
そこからはもう最悪でした。エンジニアがmonopoを辞めたんです。
岡田:彼はスタートアップでエンジニアの仲間たちとプログラミングをガシガシやるのを夢見ていたんです。だけど、monopoは人が入ってくる気配もないし、プログラミングを始めたての岡田はガシガシどころか足を引っ張るし、そういうなかで不満が募っていったんだと思います。
佐々木:「俺は本当はデザインに興味があったんだ」とも言ってたよね。わかってあげられなかった。
岡田:でも、そんな話を聞いたのは数年後で、彼はmonopoを離れていったんです。
佐々木:自分たちが悪いんだけど、あれはショックでしたね。事業のほうも小澤さんの会社に抜かれて、ただキャッシュが出ていくみたいな状況になって。当時は売上も20万円くらいしかなくて、先輩からのご縁でタダで住まわせてもらってた家もなくなって、引っ越しするお金もないみたいな状況でした。
このままだと無理だと思って、小澤さんに相談なしに勝手にサービス終了のお知らせを出したんです。そしたらめっちゃ怒られて。謝りに行ったら、「とりあえず稼がないと生きていけないだろう。お前らは音楽とか、デザインとか、サイト制作もできるから、クリエイティブの仕事をやってみたらどうだ?クラウドワークスっていう、俺が出資した会社があるから紹介してやるよ」って言ってくれて。それがきっかけで、monopoはウェブ制作やデザインの仕事をやっていくことになったんです。
岡田:小澤さんがクラウドワークスの吉田浩一郎社長(※)を紹介してくれて、その翌日に会いに行きました。当時はまだクラウドワークスがローンチしたばかりで、吉田さんが直で営業していたお客さんと繋いでくれたり、自社のキャンペーン制作にmonopoを使ってくれたり、すごいプッシュしてくれたんです。
クラウドワークスがテレビ取材を受けるときには、ワーカーをやっている会社のひとつとしてmonopoを出してくれたりして。本当に助けてもらいました。
(※)吉田浩一郎:東京学芸大学卒業後、パイオニア、リードエグジビションジャパンを経て、株式会社ドリコム執行役員として東証マザーズ上場を経験後に独立。2011年に株式会社クラウドワークスを創業。【https://crowdworks.jp/】
佐々木:僕らが大学を卒業したのが2011年の4月で、ほぼ売り上げのない会社の社長になって、ようやく出した懸賞アプリはリリースから2ヶ月でほぼ潰れているような状態で、そこからクラウドワークスで仕事をやらせてもらって。頑張って頑張って仕事を取って、10万円の請求書をコンビニでプリントアウトして、封筒に入れて送ったりしてね。「振り込まれた!」とか言って感動しましたよ。それから徐々に月の売り上げが100万とか200万になってきて、やっと飲みに行けるようにもなりました。
岡田:めっちゃ大変だったけど、全部が楽しかったよね。
佐々木:当時は原宿駅前にあった『ネスカフェ』というお店に、僕と隼くんと新しく入ってくれたエンジニアと3人で集まっていました。毎日昼の11時くらいに集合して、900円のサラダバーを頼んで、夜の9時くらいまでずっと仕事をしていたんですよ。そこをオフィスのように使って、お客さんを呼んだりもしていて。ネスカフェがプロモーションとして経営しているカフェで、別に儲けようとしていないというか、長くいても嫌な顔をされない環境だったんです。
そこに閉店までいて、毎日3人で飲みに行って、お店でもコーディングをしたり、電話をかけたりとかするような生活が半年くらい続いたのかな。
岡田:クラウドワークスでは仕事を取れていたんですけど、単価を上げられなかったので、ひたすら数をこなしていて。とにかく長い時間働いていましたね。

佐々木:半年くらい必死に働いて、ようやくオフィスを借りようってことになったんです。家賃が21万円くらいだったかな。それでネスカフェ卒業ってことで、今まであまり話したことのない店員さんに「いつも長居させてもらってすいませんでした。近くにオフィスを借りることになったので」って挨拶したら、「monopoさんですよね」って言われたんですよ。
――え、なんでわかったんですか?
佐々木:実はスタッフの人たちで、僕らのインタビュー記事とかを見ていてくれたらしくて。店長さんに「ずっと密かに応援していました。オフィス、おめでとうございます!今日はコーヒー無料でいいです」って握手されたんです。あれは泣きそうになりました。
――いやぁ、感動的な話。聞いてるほうも、泣きそうになります。
佐々木:めちゃくちゃ嬉しかったですね。
岡田:しかも、2024年には、このお店で行われたネスカフェのプロモーションをmonopoで担当させてもらったんですよ。10年以上の時を経て、クライアントになってもらえるなんて、本当に嬉しかったですね。
――さらに続きがあるなんて!それもまた運命的な展開ですね。
佐々木:オフィスを構えると、友達が遊びに来てくれるようになりました。そういうなかに、後々monopoに入ってくれる人たちもいたんですよね。
岡田:初期のメンバーは、ほぼ友達の紹介で。とりあえずオフィスに遊びに来てもらって、飲みに行ってみたいな採用をしていましたね。
佐々木:みんな昼くらいにオフィスに来て、ずっと作業をしていて、夜の11時くらいになるとピザを頼んだり、ビールを飲んだりしだして、そこに友達も来て溜まり場になっていくみたいな。デザイナーさんが来ていたり、友達がエンジニアの方をを連れてきてくれたりして。そういうのは今とあんまり変わらないね。そうやって初期のmonopoができていきました。
【monopoの歴史4:転換期編】へ続く
シリーズ monopoの歴史は毎週水曜日に更新です。どうぞお楽しみに!
インタビュアー・執筆:阿部 光平
撮影:monopo Tokyo
連載【monopoの歴史】バックナンバーはこちら!
もっとmonopoのことを知りたい! という方はぜひこちらをご一読ください。