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言葉を心に貯めていくということ

記憶に残っている言葉というものがある。
散歩のときにみかけたおもしろい看板。
本や音楽に触れる中で心に刺さった言葉。
記憶は積み重なっていく中で溶け合って、個別のそれらは「記憶に残る言葉」として一塊となる。
だから、言葉を覚えていても、その言葉の元を思い出せないということもある。

昨晩は満月だった。
きれいだなと空を見上げていると、捨てられていたレジ袋が風に舞って、ふわふわと泳ぐように僕と月の間を漂った。
持ち手の部分が下になり、それがまるで足のように見えた。冬の澄んだ空気を照らす月光が、袋を透かしていて綺麗だ。
月光と海月(くらげ)。
そんな言葉がふっと記憶の底から浮かんでくる。

レジ袋が宙を舞う光景が、なんだかクラゲのように見えたからだ。月光の中を泳ぐクラゲ。幻想的で素敵だなと思う。
けれど、そのワードは僕の中から自然と出てきたものではない。
そもそも、イメージとして湧いてきた海月(くらげ)という言葉。僕の語彙から自然にその言葉を取り出すのなら、たんに「クラゲ」として出力されるだろう。

帰宅し、なんとなく月光と海月を検索にかけてみると、それは萩原朔太郎が書いた詩のタイトルだった。
教科書で読んだときに記憶に残ったのか。それとも、いろいろな詩を読んでいた時に印象に残り、記憶にストックされたのか。

詩を読んでみる。
いい詩だった。言葉の運びは美しく、ひとつひとつの言葉がイメージを膨らませてくれる。
月光の中を泳ぐという素敵な感性は僕の中からは出てこないだろう。月光に舞うレジ袋の光景が、「記憶に残る言葉」という一塊のストックの中から月光と海月のワードを引き出した。そのおかげで、僕はあの光景を美しいと感じることができたのだろう。

言葉というのは、ある程度のストックがあれば困りはしない。語彙が豊富なことは素晴らしいことだけれど、じゃあ言葉を多く知っていることそのものが素晴らしいのかというと、すごいとは思うが、便利な道具として言葉を用いているように感じてしまう。
道具でもなく、ただ消費するだけの日常ツールでもない。
読んだり見たり聞いたりした中で自分の中に積もった言葉たち。それこそが宝になるのではないだろうか。
別に、それは高尚でなくてもいい。自分の内側に刺さる言葉であるならば、それが一番いい。

多くの言葉に触れ、たくさんの想像をしていく。そうすると、身の回りの世界をもっと美しく感じることができる。
月とレジ袋、記憶の底から浮かんだ『月光と海月』が紡いだ素敵な一夜だった。

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