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性別は男女だけ?

はじめに

アメリカの大統領にまたトランプ氏が選出された。そこで「性別は男女だけ」と発言したことが話題になっている。僕は生物学的なオスメスを大事にしているのだが、「性別は男女だけ」というと若干語弊があるそこを少し説明していきたいと思う。

なぜオスメスを強調するのか

僕は常々生物学的性別であるオスメスが絶対だと言ってきた。それは社会を形成していく上でどこかでラインというものを引かないといけないからだ。

よく問題になるのがトイレや大衆浴場だと思うのだが、みんななんとなく、男と女で分けている。だが、その前にヒトしか入れないというラインも引かれている。例えばこのラインが哺乳類で引かれていたらイヌでもネコでも入ることができるということになる。霊長類で引かれているならサルやゴリラは入っていいということになるのだ。

このように社会を形成していく中でどこにラインを引くかというのは非常に大事な問題なのだ。LGBTQはジェンダーであり、生物学的性別ではなく、社会的な性別ということになる。

進化や分類の上の方で切れば含まれる生き物が多くなり、下の方で切れば細分化されてくる。トイレで言えば、男と女で切ることを基準とすれば、ジェンダーレストイレみたいなところだとつけるひとが増えて、ジェンダーを細かく分けるなら男と女以上に細分化してトイレを作らないといけない。それはお風呂にもいえることなのだが、現実的ではない。

細分化してやるべきだというひとがいるとするならば、それは自分で作って商売をしてみればいい。できないことがわかるだろう。

そもそもの知識として、生物学的性別の下にジェンダーがあると考えた方がいい。

妥当性

ラインを引くには妥当性が必要なのだ。その中で大衆浴場に入るのはヒトという動物ですとか、そこから細分化するのに生物学的な男女が限界というのも妥当だと思うのだ。

ジェンダーで分けるべきだというひとの意見は僕はおかしいと思う。今は個人の貸切風呂などもあるので、それらを利用すれば良い。わざわざ精神は女性で肉体は男性ですというひとが女子風呂に入る妥当性はない。もしあるとするならば性転換手術を受け、肉体的な見た目も女性でなければ入る妥当性はないと考える。

その理由として、本当に精神が女性なら肉体が男性のひとが女子風呂に入ることがどれほど嫌なことなのかを理解できないとおかしいからだ。なんなら肉体も精神も男性である僕でも推測できる範囲の非常に当たり前のことだ。

それがわからないもしくはそれでも女子風呂に入りたいは男でも女でもない何かか、もしくは女性のフリして女風呂に入りたい男だ。
この人物が女子風呂に入る妥当性はない。

おわりに

これに不満で認められるべきだというひとがいるならば、そのひとはそれを認める大衆浴場を作ってみたらいい。僕はこのジェンダー問題をいうひとはいるが、それをできるようにするために施設を作ったひとを知らない。

おそらくそういう問題を突くことによって自分が正義でありたいだけのしょうもない人間だと僕は考えている。

反対意見もあると思うが、僕は生物学的性別は妥当なラインと思うのだが、皆さんはどうだろうか?


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