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『むかしこっぷり』で思い出すこと

 おくやまゆかの『むかしこっぷり』(KADOKAWA)は、家族やおじさんおばさん知人から思い出を聞きとり短編漫画に描いたもので、もう何度も読み返しているのだが、子供の頃の引っかかった出来事、それも結末がない、けっきょく真相や正体がわからなかったりするものが多い。第一話の「浜辺のはなし」は、昭和30年頃の海辺の町でのこと。海岸でみんなと遊んでいると、自分にだけ十円玉をくれる学生服の男の子がいた。会うたびに。いまだと百円か二百円くらいの価値がある。親にバレて怒られ、町のうわさにもなって、少女は浜に行かなくなる。
「ふーん。で? どうなったの?」
 作者が問いかけるのは、夫の母のサチコさん。
「知らない。それっきりよ」と食卓で湯飲みを手にする彼女、かつてのおかっぱ頭の小学生は年齢分のトシをとっている。「会ってみたくない?」さらに問われ、乙女になって昔を思い出にふける表情がいい。

 学生服の彼が何者だったのか。顔はぼやかさている。なぜ彼女にだけ十円玉をあげたのか。いろいろ推理のしようはあるだろうが、作品中での正解はない。淡い初恋的なものから、ちょっとコワイ感じのものまで想像はふくらむ。浜に行かなくなったことや、昭和30年代は子供の誘拐事件が相次いだだけに、描く作家がちがえばドキッとするくらいホラーな展開をみせたりもするだろう。
 もらった十円を手にして、困った顔をしていた少女が、いまは息子の嫁とその話を食卓でしている。この関係がとても幸せに思えてくるのだ。いっぺんにおばあちゃんになっちゃった。あれやこれやの恋とか歳月があったであろうに、そこはカット。だから義母のほうれい線に空白をぎゃくに想像したりもする。

 おくやまゆか『むかしこっぷり』(KADOKAWA)より

 この漫画がいいのは、肝心のことは、もやっとしていることだ。いかにも日本的だ。こういうことではないかという推理は出来ても、ほんとうのことはわからない、いまとなってはたしかめようがないというのが、不思議な余韻をもたらしている。
 わたしがいちばん好きなのは「コマツくんのはなし」である。
 これも著者の伯母の体験談がもとになっている。ある日、子供をつれて家に帰省すると、知らない若者が出てきて「お前は誰だ」と尋問される。驚く。そりゃそうだ。わが家に他人がいて、誰だはないだろう。あわてて「このうちの娘です」と返事する。玄関口でふたりを見比べ、子供たちはおろおろしている。
 父母は誰かれなく面倒見のいいひとだったらしく、息子の友人で、事情があって郷里に帰れないコマツくんを居候させていた。コマツくんは不器用で不愛想、きまじめで裏表がない人間だということはわずかなコマからも伝わってくる。子供たちが家を出ていったあと、なぜ父母が息子のように接したのかも。
 そして、祖父母が他界し、すっかり年輩のおじさんになったコマツくんがたまに、ひょっこり伯母の家を訪ねていたという。ただ、この数年はそれも途絶えてしまった。で、来なくなったコマツくんのことを思い浮かべる。かいつまんで、ことばにしたら、それだけの話なのだが、漫画で読むと、じつに深みがある。
 口下手なコマツくんと父母との距離感、機微がコマの行間からにじ出ていて、とくにラストの1ページ、想像上のコマがいい。とてもいい。ひとをすくう、すくわれるというのはこういうことなのだろう。


 あるいは、「善光寺のはなし」。これもまた伯母の話だが、まだ四つか五つくらいの頃、近所に住んでいる聾唖のおばちゃんのことが好きでよく家に遊びにいっていた。そのおばちゃんも含め町内の人たちで善光寺にお参り行った日の出来事だ。
 本堂の奥の真っ暗な回廊をたどるという名物イベントがあり、ぞろぞろと列をなしてみんなで地下に入っていくのだが、近所のおじさんが「悪い人は戻ってこれないって言うで」と子供の耳元で冗談をいう。
 そうしてみんなが回廊から出たのに、聾唖のおばちゃんが戻ってこないと騒ぎとなる。不安になった主人公がこらえきれなくなり「おばちゃんはいい人だあああ」と泣き叫んぶ。そこに、お坊さんに連れられておばちゃんが現れる。迷っていたらしい。
 印象的なのは、ひと目もはばからずに泣き叫ぶ小さな女の子と、驚くおばちゃんの表情だ。とてもいい。おばちゃんの福々しい顔から、ふいに子供の頃にプロ野球の観戦につれていってくれた、ショニチャン家のおばちゃんを思い出したりした。


 この数日は10月に出る予定の『お弔いの設計』という本のゲラを見直している。お盆ということもあり、いろいろ忘れていたことを思い出す。小学校の四年生ぐらいの頃、母親の実家に預けられていたことがあった。
 うちの祖父が封建的で、自身は頻繁に旅行に出かける反面、嫁の外出を許さない。そのため家族で泊りがけで旅行に出かけるということは一度もしたことがなかった。だから、よその家に泊まるということ、それも自分ひとりで、という異例の出来事にたいそう緊張していた。はじめて尽くし。駅の名前はわからないが、大きな川の近くにあったホームの様子をおぼえている。川が見下ろせた。母親と電車に乗ったのも初めてだった気がする。
 母親はその日の夕方には帰り、わたしは一週間くらいひとりで伯父の家に滞在した。玄関先に鎖につながれた白いスピッツと目があうたびギャンギャン吠えたてられ、玄関に行くのが怖かった。コワイといえば「入っちゃいけないよ」と襖が締め切られていた部屋があった。ダメと言われたら、覗きたくなるものだ。
 食事時になると、祖母かオバがその部屋にお膳を運んでいった。あそこにはだれかいるらしい。でも、教えてもらうことはなかった。違和感といえば、ソースだった。家ではウスターを使っていたが、伯父の家にあったのは中濃ソースで、なんじゃこりゃヘンやぞ。家ごとに食習慣が異なるものだというのを知ったのもこのときだ。もちろん頭で理解するのはずっと後々のことで、あのときはソースをかけられずにいた。ドロッとしているのが気持ちわるかった。そして何日かして家のつくりがわかってくると、こっそりあの襖をあけてみた。

 まっ暗な部屋には布団が敷かれ、あうあう、と顎をうごかし、こちらを見るくぼんだ目。ミイラのようにやせ細っていて、襖をあわてて閉めた。
 母方の祖父だということを知るのは、だいぶあとのこと。なぜいるのに、いないかのように扱われねばならないのか。ひっかかりながら、あれは誰で、どうして部屋は締め切られていたのか。家に帰ってからも、母にも聞けずにいた。
 子供の頃に知りたいが聞けないでいたのは、それだけではなかった。実家の仏間に飾られた学生服の写真。あるとき姉から「おじさん」「おねえちゃんたちのお父さん」「戦死しはってん」と教えられはしたが、母と「おじさん」とはどういう関係なのか。ながいこと、もやっとしたまま明らかにならなかった。鴨居にある学生服姿の遺影を見上げては、アナタハドナタですかとおもっていた。
 あの部屋にいた祖父が亡くなったのを知るのは、翌年だったか。それから何年もせずに祖母の葬式に行く支度をしていた母のことはよく覚えている。
 伯父夫婦には子供がおらず、あの夏、伯父の家ではずっと漫画を読んだりプラモデルをつくったりしていた。家にいるときも、夏休みは近所の子供たちと遊んだりすることなく、毎日ぼんやりテレビを見るか漫画を読むだけだったから、生活そのものは変わらなかった。
「たいくつやろう。遊ぶ相手にもいいひんしなぁ」と叔父夫婦に聞かれたが、「ううん」と答えていた。ひとりでいること自体は嫌ではなかったし、お利口にしていたら「またプラモ買ったるわ」と言われるのが嬉しかった。家ではぜったい買ってもらえないリモコン戦車を手にして有頂天になっていると、「どうや、おっちゃんのとこの子どもになるか」「……」
 眼鏡をかけた農家の伯父は無骨で、どう接していいか子供心につかめず、ちょっと苦手だった。もともと父親に対しても子供の頃は「よくわからないひと」と感じていたし、伯父に対してはおそらく猫が様子を見るような目で観察していた。
 伯父の家に滞在中、一度だけ近所の西宮球場にいったことがある。伯父の家の前に住んでいた叔父夫婦(たぶん母の弟)から「ずっと家にいるんやったらかわいそうや」と夕方、野球観戦に誘われた。阪急ブレーブスの本拠地で、南海ホークスが対戦相手だった。
 座ったのは三塁側の内野席。ラジオで南海のゲームを聴いていたことがあり「どっちがいい」と叔父に聞かれ、「野村や広瀬がいるほう」と答えた。当時のパリーグは子供の目にも、これでやっていけるんかいと心配になるほど閑散としたもので、人数はすくないのにやたら元気な、がらがら声で怒鳴りあげる阪急の応援団のヤジにびっくりした。そして次々と三振、凡打に打ち取るアンダースローの山田久志に圧倒されたのを覚えている。
 南海の先発投手はエースの皆川だったが、早々に打ち込まれていた。生まれてはじめての球場観戦は、ヤジと山田の変則投法だけが印象にのこり、南海の選手のことはほとんど覚えていない。帰り際に「楽しかったか?」「うん」「また来たいか」「うん」「だったら、おばちゃんところの子になれへん? 何度でも観に来れるよ」といわれ、戸惑ったのを覚えている。人生初、二度とないモテ期だった。伯父からショニチャンと呼ばれていた叔父は、おだやかなサラリーマンで、おばちゃんはぽっちゃりとして、やさしかった。ふたりには子供がいなかった。
 あのとき、もしもあのままショニチャン家の子供になっていたら……。夏になるとときおり考えることがある。
 母が現れた、家に帰るという日に、伯父の家の庭で母を撮影した。兄から借りていたミノルタの一眼レフで、パシャパシャとプラモを並べて撮影したりしていたが、唯一ひとに向けたものだった。撮られることを嫌がっていた母だったが、この日だけは微笑んでフレームにおさまってくれた。けっきょく冠婚葬祭以外で唯一残っている母の写真となった。
 今年は33回忌になるが、その母の葬儀のあと、父の妹から「そういえばまだミノルちゃんが小さいとき、養子にだすかどうかで悩んでたんよ」と聞かされたことがあった。
「ええっ。なんも聞いてないの。そらぁ悪いことをしたね」あわてて話題をすりかえられたが、それくらいうちの家族は大事なことを話題にせずにやってきた。当時、わたしが同居する祖父母に懐かないばかりか、ひとまわりちがいの次姉以外とは会話のない、いまでいう引きこもり状態だったため、母はひとりで窮していたのだろう。晩年、養子の一件について父に聞いてみたが、「知らんわ」覚えがない、また叔母がいいかげんなことを言ったんだろうと血相をかえて怒りだす始末だった。
 結局、母に直接あのときのことを問うこともなかったから真相はわからないままだ。「うん」「ああ」「いやや」首を縦にするか横にするかで、学校はもちろん家でも「話す」ということをしない、ぼんやり黙っている子供だった。
 大人になって、自分に自信がもてなくなったときに、あのモテ期を思い出しては「こんなボクでもほしいというてくれたひとがいたんや」と支えになってきた。あの頃しばらくサブマリン投法をまねたりもしていた。家の壁を相手にしたひとり野球だったが。とくにこの話にオチはないです。

👆過日、佐倉の神社で見かけた人懐っこい美猫。母の写真の代わりに。

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