“元大統領からグーパンチされたカンタロー”【保存版】インタビュー田原町03『ルポ日本の土葬』の鈴木貫太郎さん【後編]
9月10日、浅草・Readin’Writin’ BOOK STOREにて。
『ルポ 日本の土葬』(宗教問題)の著者で、ジャーナリストの鈴木貫太郎さんをゲストにお招きし公開インタビューを行いました。
質疑応答を含めた2時間に、当日聞き逃したフィリピンの邦字新聞記者時代から初の著書刊行までの経緯を補足インタビューしたものを加えた記録です。
※記事の無断転載はお断りします。
話し手=鈴木貫太郎さん
すずき・かんたろう/1981年、東京都生まれ。東京電力退社後、米国オハイオ州の大学を卒業。早稲田大学ジャーナリズム大学院修了。ニューヨーク・タイムズ東京支局、フィリピンの邦字新聞勤務を経て、フリーランス記者。
聞き手🌖朝山実
あさやま・じつ/1956年、兵庫県生まれ。ルポライター。編集者。
前編からつづく
【ここから質疑応答に入ります】
aさん▼その後のムスリムの墓地問題でわかっていることがあれば教えてください。もう一点。日本で暮らしているイスラムの人たちのジェンダーの問題などでわかっていることをお聞かせください。
まず一つ目の質問ですが。この本が出たあと、小川さんが日出町の議会の人全員に本を送っていただいているんですね。それもあってか、話し合いが進み、衛藤さんをはじめとする議会の人たちと当事者とで合意が成立しました。
この本が出るまでは衛藤さんたちは「30年間、埋葬した墓地を掘り返してその上に埋葬するのはやめてほしい」と言っていたんです。ただ、その30年という期間の理由がはっきりしないので、これは話が長引くだろうと思っていたんですが、イスラム教徒の人との話し合いの中で、衛藤さん側が20年に譲歩することで合意にいたるんですね。
合意できたのでこれで出来ると考えていたら、本にも出てくる隣の杵築市の住民から反対の声が出て、現状としては止まっています。それで、そういうことも訊かれるだろうというので衛藤さんとさっき電話で話したんですけど、「すぐに動きだすと思ったんだけど。いまは止まっています」
あと補足になりますが、この本を書くときに小川さんから言われたのは、「事情を知らない専門家は出さない」「当事者は必ず実名を出す」「二、三年で異動するような立場(役所)の人間から言質を取るような、弱い者いじめのようなことはしない」。この3点の方針を確認していたんですね。
二つめの質問のジェンダーですが。するどい質問だと思いました。
ここに登場するリーダーは男性ばかりなんですね。唯一登場する、ムスリムの女性は取材を断られた場面で。関西地方にあるムスリムのひとから「来ないでください」と電話で丁寧に断られたんです。そっとしておいてほしいという意味なんですが。
私が取材するのが難しかったのは、お祈りをするにも男性と女性は階がちがうんですね。
じつは女性が何を思っているのかということを聞こうにも、女性がお祈りしている場所に私は入れない。私が女性記者であれぱ、その場所に入っていって取材できたんでしょうけど。だから、彼女たちが土葬の弔い方についてどう考えているのか。わからないんですね。
あと、葬儀に立ち会ったときに女性がいたんですけど、そのときは聞けるような状況ではなかったんですね。
もうひとつ。葬儀ということでいうと、昔土葬をやっていた村の人に聞くと、女性はおにぎりをつくる役割を任されるなど、こまごまとしたことをしないといけないので大変だったみたいなんですね。男性も穴を掘ったり、大変なんですけど。そういう本音を聞きたかったんですけど、取材をしている時点では土葬がすでに廃れてしまっていたので、残念ながら土葬を体験した女性に会うことはできなかったんですね。土葬を希望する女性には会えましたが。
bさん▼土葬をするにも儀式として、どのようなことをするのか。よくわかっていないものなんだなあという印象を受けました。
そうですね。こういうふうなものという決まったものがあれば、取材は逆に楽だったように思うんですね。そういうものがないからこそ、取材が泥沼にはまっていったような気がしています。
とくにムスリムの人たちの場合は、日本人の研究者のひとにたどりつくまでに時間がかかったというのもあって。そのひとに聞くまでは、ムスリムの人に聞くという取材の仕方しかなくて。
だけど、日本人が仏教の葬儀のことをよくわかっていないように、彼らもまた生活の一部として土葬するというのを当然のこととして受け入れていて。尋ねても、
「そんなの当たり前だろう」だとか「そんなの、みんなでやるんだ」という大雑把な返答になるんですよね。
そういうふうにムスリムの人たちも、教義を十分わかっているわけではないんですね。
たとえば、ムスリムは一夫多妻制になっていて、いまはもうそういうのは少なくなっているんですが、どういう場合は多妻が可能なのか?
ふつうのおじちゃんに訊くと、「そんなもの、カンタロー。愛していたら、二人目もいいんだ」と言うんですよね。
たぶん、訊かれた以上、教えたくなるんでしょう。だけどもう居酒屋でオッチャンたちが話しているのと変わらない。もちろん話をわざわざ聞くというときには、知っているひとに訊くわけですが。現場では、そうではない人もたくさんいましたね。
cさん▼東海エリアのムスリムの土葬に関する情報はありますか?
とくに東海エリアの取材はできていないんですが、和歌山や静岡にイスラム霊園がありますので、そこまで移動されている可能性はあると思います。
あと、全国で土葬ができる霊園の数については、メディアによって6から10と数は多少ちがうんですが、そのメディアが把握したのがその数ということで、ほぼ土葬の会の山野井さんが開拓していった墓地の数とほぼ一致するんですね。プラス、イスラム霊園があるというぐらいで。
というのも、土葬そのものは禁止されているわけではない、合法なんですね。ですから、墓地によっては知られていないだけで、やっているところもあると思うんです。
それで、関西のイスラム教徒のひとを電話取材しようとしたときに断られたんですが、「そっとしておいてください」と。鈴木さんに書かれると、たとえ鈴木さんが善意であっても、困ったことになると。
そういう事情もあるので、ムスリムの人たちが積極的に情報を出すというような類のことでもないんですね。情報が共有されているとしたらモスクの中ではされていると思います。
🌙補足すると、「そっとしておいてください」というのは、背景にはムスリムの人たちが土葬の墓地をつくろうとすると、ヘイトを行う人たちが「わがまま言うな。日本の伝統に従えないなら出ていけ」と言った反対運動を始めるので、ということでしょうか?
そうですね。この問題を語る上で、とくに日出町の地元の衛藤さんたちとは異なる反対勢力がいるというのが重要なところで。
衛藤さんたちとは異なる、いわゆる排外主義的な主張をされる人たちとは分けて考えないといけなくて。「そっとしておいて」というのは、排外主義の人たちに間違って情報が伝わることで、嫌悪的な感情が広がっていくことへの恐れがあるんだと思います。
そう思うのは、この本でも、埼玉と茨城の霊園を紹介してもらって見に行ったんですが。いつ葬儀があるのかということも知った上で行ったほうがいいだろうというので、大塚にあるモスクのひとに頼んで紹介してもらうんですね。
このときには相当難航しました。
ただ、教会の紹介をいただいて行くと取材はスムーズで。とくに大塚のモスクの場合、以前に霊園を作ろうとして反対運動にあって頓挫したということもあり、センシィティブになっているというのはあったと思います。
dさん▼たとえばイスラムの人たちを取材するなかで鈴木さん自身が、揺れたということがあれば教えてください。
ありましたね。さっきも言いましたが、女性のムスリムの人には電話でしか聞けなかったというのは心残りでした。あと、パラリンピックの車椅子バスケットを取材したときに、アフガニスタンの女性アスリートをインタビューしたことはあるんです。
そういうふうに表に出てきている場合は取材もできるんですが、今回のような話したいわけではない話題だと、ハードルが高くなる。大分もそうですが、東京でも取材できたのは全員男性ですし。
あと、無知であるここと差別的であるということは、発言の表面だけを見ていると同じことのように見えることがあるんですね。
たとえば、衛藤さんを取材しているときにも、間違った情報をもとに「あれは、こうじゃろう?」と話されることがあって、ひとつひとつかみ砕いて説明していくと「そうなんかあ」となる。
つまり、会った最初はけっこう際どい発言もされ、頭ごなしに反発していると理解がすすまないんですね。
それで、私がどうしていたかというと、相手をこうだと決めつけず、一端ぜんぶ許容する。アントニオ猪木のプロレス作戦で、放たれた技はすべて受ける。
距離を縮めることによって、鈴木の話も聞いてやろうとされていったんですよね。
あと、衛藤さんの奥さんとも取材するなかで仲良くなったんですが。衛藤さんがいないときには、帰ってくるまでは玄関から中には入れてもらえないんですね。それはうちの母ちゃんもそうでした。主がいないときには家には入れないというのは。
衛藤さんと酒飲みながら話していたときには、衛藤さんのワイフも、わあわあ言うんだけれども、衛藤さんの視線を感じるのか「わたしはバカな女だから」と姿勢を正される。
そういうジェンダーの話とは遠いところにいる女性がいて、私のためにおにぎりをこしらえている。それは正しくないですよと言っていいものか、どうか。村に入っていく中で、そういうことには常に悩んでいました。ことごとく村の女性が、おふくろのような人でしたから。
【ここからは、後日Readin’Writin’ BOOK STOREにて鈴木さんに改めて追加取材しました】
🌙あの日着られていた服なんですが、本の著者近影の服と同じなんですね。勝負服なんですか?
勝負?といわれれば、そうですね。インドネシアで買ったものですが。
フィリピンに長くいたもので、東南アジアの独裁政権に対して連帯して頑張ろうといった会議があればなるべく参加していたことがあり、インドネシアでタイとかベトナムとかのジャーナリストが集まる会議があったときに、現地のイスラム教徒のひとに選んでもらって買ったんですよね。
民族服というのではなくて、民族服ふうにデザインされたシャツで。その友人には「これは民族服ではないから」と念を押されました。
一着しか買わなかったので、大事な取材の日に着ています。
目にとめていただいて、いまみたいに質問されるとそこから話ができるというのを狙って。ですから、一度か二度着たら、クリーニングに出すという。
🌙先日は時間の関係で、フィリピンに行くというところを省いてしまったんですが。そのあたりの話をお聞かせいただけますか?
ニューヨーク・タイムズは、年末までいて。10か月弱いたんですね。雇用形態としてはアシスタントで、記事を書いて出してはいけないという決まりはなかったので、自費で取材して出すんですよね。
私が中心になって取材して載った記事が二つ。それ以外に取材したメモ程度の協力で、名前がチームのひとりとして載ったものだとたくさんあります。
🌙中心になったものは?
ひとつは、女性のサッカーのワールドカップで日本が優勝した。澤さんのときですね。あのときは対戦相手が米国で、日本が優勝するとしたら時差の関係で深夜になる。ニューヨーク・タイムズのアメリカの人から、
「スポーツ部は人員がいないので、貫太郎。優勝したらだけど、東京支局の仕事が終わってから渋谷に行って、街の声を録って来てくれないか」と言われ、支局のバイト代とは別途に報酬をもらいました。
渋谷に行ったのは、スポーツバーに熱心に観戦している人が多いのと、撒かれた号外を英訳して送るのと。
あともうひとつは、夏休みに自費で一週間三宅島に行ったんです。
🌖三宅島に?
ちょうど火山の噴火があって、島民の人が避難した後に帰島しはじめていたときだったんですね。
アメリカ人の記者と話していると、
「フクシマもそうだけど、どうして日本人は危険性があるにもかかわらず、戻ろうとするのか?」というので、だったら三宅島を取材して記事を書かせてくれと申し出たんです。
「なんで戻ってきたんですか?」と聞いていく。なかには自宅が溶岩に流された人もいるわけですよね。そういう取材を重ねることで、日本人の土地に対する思いを特集記事で書きました。
それは友人が島で働いていたので、会いに行くというのも兼ねてだったんですが、ただ行くだけでなく何か書きたいというのもあって。
ただ、通常のアシスタントの仕事はコピーボーイ。記事を書くというのは業務外だけども、やってはいけないとは言われてないものですから、記者のひとに相談し「書いたら見てやるよ」と言ってもらえたんですね。
🌖何人くらいインタビューできたんですか?
三宅島の取材では、録音しながら取材したのは9人ですかね。取材の仕方がわかっていなかった。はじめて英文で書いた長い記事だったんですよね。
それまでは「メモ出し」といって、取材したファクトを伝えるというものでした。
掲載されたものは、記事に手を入れてもらいながらですけど。それは3月のときから私のことを見てくれていた記者のひとがたくさんいて、応援してくれたというのもあってのことで。英文のものはアーカイブでいまも残っています。
内容は三宅島の説明と、硫黄のレベルが上がるとサイレンが鳴るんですよね。
当時の町長に「気をつけてください」と言われてもどうするんですか?と訊いたら、各家にガスマスクを配布しているからというのと、島のおばあちゃんに聞くと「もう、どこに置いたか忘れちゃったよ」と話す、そういう描写を書いたんですね。
記事の結論としては、「ここで生まれて育ったから戻るんです」と胸を張っていったひとがいて。40代くらいの男性で、バーのような飲食店を営まれていて。最後の一文を、シンプルにその彼の言葉を使い、
“It’s simple. I was born here, so this is where I come back.” とシメたんですよね。
掲載された三宅島の記事👇
https://www.nytimes.com/2011/12/10/world/asia/residents-of-miyake-japan-cling-to-volcanic-home.html?smid=url-share
🌙ニューヨーク・タイムズをどうしてやめて、フィリピンに?
辞めたのは、記者になるには文章の実力がないというのがひとつ。
東京支局じたい、もうフクシマがニュースの前面になるということが少なくなり、人員の縮小をはかるようになっていた。香港など世界中の支局から人を集めて特集班をつくっていたのが解体され、東京支局のもとのサイズにもどったんですね。
それでリサーチスタッフのようなかたちでそこにいようとするのか。それとも一度やめて書き手として模索するのか。
尊敬する特派員のひとに相談したら、「まだ30代なんだから、アジアで取材する途を探したらどうか」と。それで日本語で書けるところを探していたら、現地の邦人に向けた邦字新聞でジャカルタとブラジルとマニラの新聞を見つけたんです。
マニラ新聞だと現地では英語をつかえるのと、私の祖父の兄、大叔父ですね、そのひとがミンダナオ島で戦死していて。そういうこともあって、マニラ新聞にまず電話してみたんです。
社員の採用情報とかはないので。直接、電話したら「その予定はない」と。
🌖電話したんですか?
はい。フィリピンに、ニューヨーク・タイムズの東京支局の電話をつかってかけたんですよね。
時差1時間で、「ニューヨーク・タイムズ東京支局の鈴木です」と名乗って電話したものだから、取材だと思われたんでしょうね。上のひとにすぐにつないでもらえて。実は記者として雇ってもらえませんかと言ったら、即答で断られ。だけど、いろいろ話していくうちに「社長がいま日本に帰っているので」と、翌週に狛江まで会いにいくんですね。
🌖すごい展開だなあ。
「二か月間無給でいいので、これは使えそうだと思われたら採用してください」と社長に言ったら、「わかったマニラに来なさい。ただし、空港からひとりで会社に来ること」と。
それで社長室にたどり着いたら、「よし。飲みにいくぞ」と日本料理屋に連れていかれ、「採用だ」と言ってもらえたんですね(笑)。
会社としては、社長は日本人で、スタッフは現地のフィリピン人が半分くらい。でも、配達の人も含めたらフィリピンの人が多かったかな。
「採用」にはなったんですが、僕が「二か月は無給でいい」と言ったので、「家賃補助はしてやる」と1万ペソもらっていました。
当時の為替レートで2万5千円ですかね。それで会社の近くにちょうど1万ペソの部屋を見つけて。
そのころはニューヨーク・タイムズで稼いだお金があったので、毎日安い飯を食べて二か月間すごし、3月から給料をもらえるようになったんですね。
🌖仕事はどんなことを?
最初の一週間は先輩の記者に街を案内してもらい、殺人事件が起きやすい区域や、ココにいけばネタがとれるとか、観光客が騙された事件とか、警察から出てきたのを書いたり、火事があった現場に行って写真を撮り、消防署に取材する。そういう簡単な記事からはじめて。定点的に、商工会議所と日本人会、警察署と消防署を回って、ネタを探す。そういう取材はそこで初めて体験しました。
おそらく大手の新聞とかに入っていたら、そういう修行をしないまま、いきなりデジタル取材に組み込まれていたかもしれないんですよね。
その後にデジタルを体験してわかるんですが、取材して出すまでのサイクルがめちゃくちゃ短いんですよね。マニラ新聞は日刊でいくら忙しいといっても、締め切りは一回。何時までに出せばいいということだったので、デジタルのように一日何回も締め切りがあるようなところと比べてみて、基礎をじっくり学べる余裕があったのでよかったと思います。
紙媒体だと物理的な締め切りがあるんですが、webだけの記事もあって、流れがちがう。
ニューヨーク・タイムズの取材のやり方、実質ひとりで書いたのは3本くらいにしても、そのスタイルをマニラでやれるようになったということではよかったと思います。
🌙マニラでは取材の仕方を教えてくれる人はいたんですか?
いましたが、私が採用してもらった野口さんというひとが創設者で。野口さんの祖父は近衛文麿で、資産もあり、新聞社を設立する前は共同新聞の記者だったそうなんです。あさま山荘事件のころに社会部の新人記者だったこともあり、夢をもってマニラに出て行かれたという。
それで共同通信を引退されたOBだったひとが原稿チェックするデスクのような役割で週何日か入られていて。そのひとたちにお世話になったんですよね。
そのひとりが安田さんといって、ルバング島に潜んでいた小野田少尉を取材したことがあるという。1970年代でしたっけ。まだジャングルにこもっている頃だったそうです。
それで私がマニラ新聞時代に懇意にさせていただいた政治家に、ラモス元大統領がいたんですね。
🌙ラモス元大統領?
そうです。彼に気にいられたきっかけは、「バターン死の行進」というのがあるんですが、東京裁判で裁かれた旧日本軍の残虐行為を示す事件なんですね。
日本軍の否定的な材料として使われることが多かったんですが、ラモスさんは、同じ道をアメリカ人とフィリピン人と日本人で平和的に歩こうという試みの“CAPAS Peaceful March”を主催された。
その情報を知り合いから得て参加した日本人記者が、朝日新聞と私だけだった。三か国でやろうというのに日本のメディアが二人しかいない。なりゆきで元大統領と飯を食ったんですよね。
私がいたのはアキノ政権の時代で、ラモス、エストラーダ、アロヨ、そしてアキノ。彼は引退して時間も経っているので、力はありそうだけど、ヒマしてそうだなあという。
取材しているうちに「カンタロウ、いつでも来なさい」と彼から事務所の住所を教えてもらったんです。
「本当にいいんですか」「おお、いつでも来い」といって。
戻って元共同通信記者の上司にその話をしたら「行かなきゃダメだろう。書けなくともいいんだから」と。そういうふうにしてネタをためるんだということを教えられたんですね。
🌖で、行ったんですか?
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