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賢治と鮎川信夫とタテカンと 【インタビュー田原町、絵本作家の舘野鴻さんにきく(後編)】

『うんこ虫を追え』(福音館書店)を書かれた絵本作家・舘野鴻(たてのひろし)さんと、映画『うんこと死体の復権』の前田亜紀プロデューサーをゲストに、
8/17.Readin’Writin’ BOOK STOREにて行った、“インタビュー田原町・番外編”(後編)の記録(15000字)です

前編を読む↓

ちなみに虫の話がたくさん出てきます。インタビューするアサヤマは、虫が大の苦手です(苦笑)

ゲスト対話者
舘野鴻さん
(
絵本作家
『うんこ虫を追え』など)
     ×
前田亜紀さん
(
『うんこと死体の復権』
プロデューサー)
     +
朝山実
(
インタビューと構成)


Readin’Writin’ BOOK STORE
©️参観者提供

✒️
前編では、前夜に舘野さんが描きあげたばかりの虫の絵を見ながら、どのように描いたか(なんともキレイな色合いだった)。
日頃見知っているはずのその虫を、こんな機会でもない限りは絶対にじっと観るということなどなかったけど、意外なことに美しいとすら感心した。横っちょからお客さんも「これ、なんていう虫ですか?」と訊ねるくらい。

舘野さんと話し、見ているようで見ていない。なのに「キライ」と思い込んでいるのはなぜなんだろう?
そんなことを考えながら、前半は舘野さんと前田さんの、映画の舞台裏対談(前田さんは関野吉晴監督のサポーター兼カメラマンとして現場で何度も舘野さんに会ってはきたけれど、??と思いつつも舘野さんに問いかけることはしてこなかったことがあったという)を聞いていた。
ちなみに前田さんは『香川1区』(大島新監督)のプロデューサーで『カレーを一から作る』『NO選挙,NO LIFE』の監督でもある。

後編では、聞き手を前田さんからアサヤマに交代。
舘野さんの10代の頃は周囲から「なぞ」と呼ばれるくらい口数の少なかった(いまはトークが絶妙)のが、どのようにして変わっていったのか。
タテカンを書いていたという大学時代、演劇にハマったりしていた頃から、絵本作家になるまで。
絵に対する考え方。
死ぬこと、生きていくことなど聞いてみた。



福音館書店刊


賢治と、擬人化について考えてみた

舘野 ぼくは絵描きだから、絵本を描くときにはテキストは後回しだったんですね。のちにそれは間違いだとわかるわけですが。
絵本の画面を構成するとき、文字の量やフォント(書体デザイン)の形を考え、この頁はこれだけというふうに決める。
文章もデザインの一部だと思っているので、位置も入念に選びます。編集者とモニター画面を見ながら、『こっちに1㍉寄せて』ということをやっています。
あるとき、画にこれだけ情報が詰まっているんだから、文字は要らないんじゃないのと言ったことがあるんですけど、出版社はダメだと。
━━それは、売れないから?
舘野 それも、あるんでしょうけど。『読書感想文が書けない』とか『読み聞かせができない』とか。
━━ああ、なるほど。
舘野 つまり、絵本には商品という側面があるということですよね。『宮沢賢治の鳥』という仕事をやりませんかと、ある編集者からいわれたことがあって、断ったんです。
ぼくは若い頃に芝居をやっていて、まわりはみんな宮沢賢治が好きだった。ぼくも賢治のこの言葉がいいとか言うと、『おまえ、賢治のこと何もわかってないだろう』とすごまれて、まあ、それから宮沢賢治アレルギーに。そのままトシくってしまったものだから、宮沢賢治と聞くと反射的に『嫌だ』となる。
━━へえー。
舘野 だけど粘られて仕方なく、『岩手に連れていってくれるのなら』と言っちゃったわけです。ええ、俺が。
本当に賢治がいたのかどうか確かめたいからって。羅須地人協会とか、マグノリアの木とか、所縁の地をいろいろ見てまわりました。そのときは新幹線で行ったんだけど、心中、頼むから宮沢賢治に憑依(ひょうい)してくれと祈りましたよ(笑)
何でって。そりゃもう描き方がわからないものだから。
その絵本は、国松俊英さんという児童書のノンフィクションの作家さんが文章を書かれているんだけど。国松さんは鳥が好きで、宮沢賢治も好きだという。それで、もともとは図鑑を作りたいからその絵を描いてくれという話だったの。だけど、図鑑の絵は仕事としてもう自分にとって面白いものではなくなっていたし、困ったなあ。
というのも、ぼくは学研の図鑑の仕事をずっとやっていたんです。『学研の科学』とか図鑑とかで食っていましたが、深度合成(複数枚の写真を合成、被写界深度の深い画像を得る)をはじめとする写真撮影機能の向上でリアルイラストの需要がなくなった。
写真に仕事をとられて、リアルなイラストを描く人は次々と廃業していってしまった。
━━そうだったんですか。
舘野 ぼくも女房も子供もいましたから、当時はもうどうしようか、と。

━━絵本の前はそういう仕事をされていたんですね。最新刊の『うんこ虫を追え』の中に、虫を観察する作者の日常を描いた作中人物が出てきますが、ちょっとコミカルな。この人物画のタッチは前々からのものですか?
舘野 ちがいます。この話は軽やかなものにしないと伝わらないので。どっちかというと漫画にちかい。
じつは10年前に企画し、『つちのこ』という絵本を講談社で出すことになっていたんだけど、担当の編者者がぼくと同い年でもうじき定年。だから早く描いてくんなきゃ困るよと催促されていて(笑)
━━描いている最中?
舘野 なんとかゆっくりと進めています。
ぼくは『つちのこ』を絵巻のように描きたいんです。『うんこ虫を追え』の描画スタイルは『つちのこ』のための試作のような意味合いもあって。担当編集者がツチノコや狼が好きな人なんですよね。
それで、私の母親の実家が岐阜の郡上(ぐじょう)で、祖父や祖母から天狗や仙人やツチノコの話をしょっちゅう聞いてた。
祖母は上村(うえむら)キヌといって、上村隆一、またの名を鮎川信夫という著名な詩人の従兄弟にあたるんですね。
━━ということは、舘野さんは鮎川さんのご親戚?
舘野 どうもそうらしい。岐阜県郡上市に越境編入されましたが、もとは福井県に石徹白(いとしろ)という村があって。白山の信仰登拝の案内をする白山御師(おんし)の人たちがいた集落があって。鮎川信夫は東京生まれなんだけど、ルーツは石徹白。そこに住んでいたキヌさんは東京の上村の屋敷の女中として働いていた。よく「東京の隆一が…」と話していて、自慢だったようです。
郡上市は石徹白の編入で市立図書館を中心に、石徹白出身の鮎川信夫の資料をまとめていて、鮎川の血筋に変わった絵本作家がいるというので、何度か原画展や講演を企画してくれていたんですよね。
だけども有名な詩誌『荒地』もちゃんと読んだことがなかった。
たまたま原画展で郡上に行ったときにちょうど横浜の近代文学館で鮎川信夫展をやっているというのを知り、最終日に滑り込みで見に行ったんです。
━━はい。
舘野   磨いた言葉の鋭さというのか、衝撃でした。言葉にはふだん使いのものと、何かを伝えたい表現としての言葉とがあって。そうか。言葉って、こんなにすごいんだ。これは、まずいと思った。おれ、それまで絵のことしか考えてこなかったから。
それで、まあ、言葉って何だろうと。
『ぎふちょう』を描きはじめたのが2011年から13年で、その頃に擬人化についてかなり考えていた。たとえば『しでむし』は虫のことを観察し客観的に描いているように見えるんですが、じつは「あなたがシデムシだったらどう思いますか?」という遠回しの擬人化なんです。
あなただったら?と、人間が人間に向けて描いている。
━━そうなんですね。

覗き込み観察する主人公
『うんこ虫を追え』から
リアルだけど、コミカル


舘野
 それで2015年、16年くらいに転機があったんです。
ぼくが描いている絵は、ぜんぶ言語化ができると思っていて。説明ができる。たとえば去年刊行した『どんぐり』はテキスト(文章)がない。
この絵本の前に『ソロ沼のものがたり』という連作短編小説を書いているんですけど。このときは情景の言語化、文章化を試みました。
絵も文章も元のイメージは同じもので、それを絵にするのか、言語にするのかの違いと言える。そういう意識で『ソロ沼のものがたり』を書きました。
で、そのとき編集者から、本の中にムシを(挿し絵で)描いてくれと言われたんですが、断りました。嫌だと。
━━いやなんだ。
 (即答が面白かったからだろう。会場からも笑い声が起きる)

絵のないはなしと、文字のない物語

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