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祖母と従弟を撮った写真集が話題の吉田亮人さん。30にして写真家に転職した、きっかけは?

『THE ABSENCE OF TWO』(青幻舎)を出された、
写真家・吉田亮人さんに話を聞いた(後編)

 転職する前後の話を聞くのが好きだ。とくにナンデマタという変わりかたをする人の決断は。
「ばあちゃんと孫」の写真集が話題の吉田亮人さん。写真家になろうと決めたのは、30歳を前にしてのこと。それまで小学校の教員をしていた。どうして、安定した職業をやめてまで? 吉田さんの答えがまた、まったく予想外のものだった。

聞くひと/朝山実(撮影も)


前編から読む☞
https://note.mu/monomono117/n/ndb356f801545



吉田さん
(以下、略)  高校を卒業する前に、何をしようかと考えていたら、ばあちゃんに「あんたはやさしいから、身体が悪い人だとかのためになるような仕事はどうや?」と言われたことがあって。そっちの仕事を探していたら、理学療法士というのを知ったんですよ。

 本に記されている吉田さんの経歴を見て惹かれたのが、小学校の教員をしていたこと、その前はタイで日本語教師をし、大学では障害児教育を専攻していたことだった。専門学校を卒業して写真家になったというのではない。大学の専攻が障害児教育という経歴も異色におもえた。

 宮崎の実家のちかくに理学療法士の専門学校があったので、卒業したらそこに行こうと思っていたんです。
 高校3年の担任の先生に言ったら、「おまえは大学に入っていろんな世界を知ったほうがいいぞ」。推薦してやるし、学校も俺が探してといてやるからって。推薦入試で受かったのが滋賀大学の教育学部だったんです。
 入ってみたら、考えていたのと違った。まわりはみんな先生になりたいやつばっかりで。しかも、宮崎から滋賀県にひとりで出てきて、言葉もなじめない。だんだん学校に行かなくなり、部屋でゲームばっかりして、引きこもりのような状態やったんです。

──そうなんですか。

 それで「学校辞めるわ」と親に言ったら、行かなくてもいいから2年生まではやってみろ、と親父に言われた。
 それで、たまたまなんですけど、翌年の春に久しぶりに学校に行ったら、いまでも親友の三人と出会えた。「一緒にライブせえへん?」って学園祭があるからって声をかけられんですよ。
 なんで俺なんやろう? でも、やりたいこともないし。やってみようかって。友達はいろんなことを知っているヤツらで、音楽とか映画とか僕の知らないカルチャーをもっていて、すごい影響を受けたんです。

──それまでにバンドとかやったことは?

 楽器なんかやったことなかったので、ビートルズからはじめて。音楽をやるのが大学生活の目標になり、めっちゃ楽しくなっていったんです。

東京・墨田区のRPSギャラリーにて、2018.12
写真集の制作過程を展示


 吉田さんは、ゆったりとしゃべる。ときおり関西弁に九州のイントネーションが混じる。インタビュー中、快活な笑顔からは、一年間ゲームばかりしていたという姿が想像できないでいた。

 それで、教育実習で養護学校に行く機会があって、これなら向いているかもしれない。小学校の教員は正直難しいけど、こっちならと思った。でも、大学を卒業してすぐに勤めるという気持ちにはならなくて。それは、ずっと音楽づけだったのに4月1日から「はい。僕今日から社会人です」というのは自分には無理。切り替えができなかった。

──吉田さんって、温厚に見えて、なかなか面倒な体質なんだ(笑)。

 そうですね(笑)。なんだろう。納得できないとしたくないところがあって。だからといって、フリーターもしたくない。何か夢があるわけでも、やりたいことがあるわけでもない。それじゃ、どうするんだ……。

 袋小路に入っていたときに、大学の掲示板に“タイで一年間、日本語教員をしませんか”という求人の張り紙が目にとまった。「もう、これや‼ これしかない」と飛びついたのだという。

 タイで何かをしたいというよりも、一年間の猶予を得られると思った。仕事はタイの大学で、むこうの学生に日本語を教える。年齢が近いこともあって、先生と生徒というよりも助け合う関係になっていてタイ語を教わったりして。こういうふうにして人に教える、これって、ありかもしれない。そう納得できたので、一年で区切りをつけて、日本に帰って先生をしようとなるんです。
 大学は滋賀だったから、今度は京都に住んでみたい。それで京都の小学校に。
 本当は、養護学校に行きたかったんですが、赴任した学校の先生から、何年間か普通の学校で経験を積んでからでも遅くないと言われ、6年間勤めることになるんです。

 その間に結婚もし、長女も生まれた。とくに大きな悩みも不満もなかった。なのに30代を前にして、吉田さんは転職を決意するのだ。なぜ? 何があったのか?

 それは、うちの妻から、「仕事辞めたら」と言われたからです(笑)。
 いままでの僕の人生、よくよく考えたら、自分で考えて決めたことなんて、本当にひとつもない。重要な局面になると、人から、ああしろ、こうしろと言われ、それに乗っかったら道が出来ていった。その繰り返しやったんですよね。

──大学に進学するつもりはなかったのに先生に言われて、とか。

 そうそう。

──小学校に6年間勤務していて、転職したくなるようなストレスとかあったんですか?

 事務仕事がめちゃ多かったり、本来の教育活動から離れた負担へのフラストレーションがたまっていたというのはありました。だけど、子供たちとは楽しくやっていて、自分に合っていると思っていたので、辞めたいなんて思ったことはなかった。
 でも、奥さんから「ちょっと話あるんやけど」と言われ、真顔で「この仕事ずっと続けるつもりなん?」と聞かれたんです。

──ドキドキするような展開ですね。

 そうなんです。「やるよ。なんで?」「はぁー、つまらんなぁ」って顔をしかめられて、もう、ええっ!?ですよ。
 奥さんが言うには「10年後、20年後のこと想像してみ。人生の行き着く先がわかっているゴールに向かって走っていく、そういう人生面白い?」て。うちの奥さんは、いまでも小学校の教員をやっているんですが、「この家に公務員は二人もいらんよ」。一人でいいというんです。

──めちゃ面白いひとですね。

 彼女が言うには、公務員で安定した生活というのもいいかもしれないけれど、父親として、あなたが窓となって家庭に違う風を取り込んでくる。その姿が子供たちの世界を押し広げるんじゃないか。「だから、辞めたら」って。
 ……はぁ? どういうこと? って思いましたよ。

──すこし話を膨らましたりしていませんか(笑)。

 いやいや、本当なんです。この話をすると必ず言われるんですけど。それ、作り話やろうって(笑)。

──奥さん自身は、いまでも教員をされていて、教員の仕事に満足されているんですか?

 すごい充実してやっていますよね(笑)。



 当時、吉田さんは28歳。妻は25歳。吉田さんは動揺したという。ここで断ったら離婚されるかもしれんぞ……。「ちょっと一晩考えさせて」。翌日、提案を受け入れることにしたものの、しかし突然のことで、教員を辞めたあとに何をしたらいいのかわからない。

 
 それで「おれ、何したらいい?」って聞いたんです。その時は、まず辞めるというのが先にあって、何したらいいかわからない。
 言われたのが「写真やったら?」。僕、大学の3、4年のときに少しだけ写真をやっていたことがあったんです。大学の友達とバンドとかやっていたこともあって、音楽雑誌とかよく読んでいた。『ロッキング・オン・ジャパン』とか『音楽と人』とか。そこに毎月載っていた、いい感じの写真を見て、いいなぁ、これなら俺でも撮れそうやんって。
 それで一眼レフのカメラを買い、現像を覚え、載っていた写真の真似ばっかりしていたんです(笑)。どこかに発表するとかじゃなくて、撮って満足している。

──それは、いま撮られている写真とは異なるものなんですか?

 ぜんぜん違います。なんとなく似せた「っぽい」ものを撮ろうとしていただけで。作品をつくる意識では撮っていなかった。
 でも、そこから写真って面白いなぁと思いはじめ、図書館に通って、アラーキーとか森山大道とかを知るんです。

──写真に興味をもつようになったのは意外と遅かったんですね。

 二十歳は過ぎていましたよね。社会人になって働きはじめてからも、家族写真を撮るくらいで、作品を撮るということはなかった。

──それなのに、奥さんは「写真家になったら」と言ったんだ。

 僕、音楽やっていたから、作詞家ならと思ったらしいんです。でも、彼女の中で、作詞家がどうやってご飯を食べているのかイメージがわかなかったみたいで、「そういえば、カメラやっていたんよねぇ……」って。カメラマンは人と接することが多いし、僕が学校の先生をやっていて、子供とも良好な関係を築いてきているのを見ていて、いけるんじゃないかって。

──写真の才能とかじゃなくて、現場の人間関係の取り方みたいなところを重視するってますます面白いなぁ。

 そうそう。それで写真って、撮るまでに会話していってコミュニケーションをとって、はじめて一枚の写真が撮れるじゃないですか。それなら、この人はできるんじゃないかと思ったそうです。
 それは、そのときに言われたわけではなくて、あとになって聞いたことなんですけど。

──それで、そのとき吉田さんは?

 えーっ!? 写真? て思ったんですけど、じゃあ、写真やろうかって(笑)。でも、写真家って、どうしていいかわからないから「あと一年だけ働かして」とお願いしたんです。
 その間に貯金して。本を読んだり写真を見たり。カメラも何を買ったらいいかわらないから詳しい人に相談して、買ったのがニコンのD90。

 吉田さんは約束通り、2010年3月末に京都の公立小学校を退職した。皆目仕事の仕方がわからず「とりあえずタイに行った」のだという。

 タイの山奥にミャンマーの人たちの難民キャンプがいくつかあるんです。一年間むこうに住んでいたときには、そういうことを知らなくて、ネットでタイについて調べていたときにはじめて知った。この人たちを撮りに行きたい。
 キャンプに入る方法がないかと図書館で本を漁っていたら、難民キャンプを取材をしていた新聞社の記者さんが書いた本を見つけて。その記者さんに問い合わせらすぐにメールを返してくれて、東京の錦糸町に難民の支援をしている方がいるというので会いに行ったんです。

 
 吉田さんは、身軽に行動をする。支援事務所の人も、その場でこういうカメラマンが行くからと手はずを整えてもらい、タイに入国するとバスで難民キャンプを目指した。

 待ち合わせ場所に着くと、この人かなぁという人が立っていて、「吉田です」「ああ、ようこそ」と、後ろからついていった。
 その人が住んでいるキャンプの家に泊まらせてもらい、10日間くらいいたのかなぁ。彼は日本語も話せて通訳もしてもらいました。キャンプの住人たちに何回も言われたのが、「この私たちの現状を何とかして伝えてほしい」ということでした。
 でも、日本に帰って、自分は果たしてこれを伝えられるんだろうか。あの人たちの真剣な思いに応えられるだけの本気さが、自分にはあるのだろうか。撮った写真を見て、考え込むわけです。

──帰国してから、ですか。

 そう。それで、僕、無理だな……って。
 正直、彼らのこの現状を伝えていくフォトジャーナリスト的なことは、自分には無理だ。そこまでの覚悟を僕はもっていない。覚悟もないのに、こんなことをやっていちゃダメだ。憧れではフォトジャーナリストにはなれないって……。

 
 この話は、これまであまり人には話してこなかったことだという。思い出すたび罪悪感が消えないこともある。

 当時、とりあえず入ってみるということで、タイに行く前に難民キャンプの写真をどこに発表しようとか、そういうことも考えてなかったんですよ。
 真剣に彼らのことを伝えようと思っていたら、帰国後でも新聞社や雑誌社にアポイントをとって写真を見てもらうとか、いろいろやっていたと思うんですが、いま思うと恥ずかしいし、申し訳ないんですが、そこまでの熱量と覚悟がなかった。

──くどいですが、出かけて行ったときには、熱意があると思っていたわけですよね?

 あると思っていたんです。でも、彼らが「伝えてくれ」というのを聞くほど、この思いに答えられる自分はいないというふうになっていったんです。

──現実の衝撃は、吉田さんが考えていたものよりも重いものだったということですか?

 それもあります。でも、熱量がなかった。端的に正直にいってしまえば。悶々として、では、何を撮りたいんだろうか。考えた末に、インドに行こうと思うんです。

──インドはどうして?

 いろんな写真家がインドに行っていて、ここなら自分が心を動かされるものがあるんじゃないか。そうだ。インドを旅しよう。でも、旅するだけでは同じようなものしか撮れない。自転車でデリーからムンバイまで、真夏に2ヶ月間かけて、毎日ひたすらこいで、旅の途上で会う人たちの生活の中に入り込むなかで自分が心動くものを見つけていこうとしたんです。

──そのときは30歳になっていた?

 そう。30歳です。その旅の中で自分のデビュー作となるものが生まれるんですけど。結局、僕は頭の中で考えていてもわからない人間で、身体をつかって、自分を追い詰める中からしか物事をつかめないんですよ。

 インドの旅の中で撮った作品をエプソンが主催するコンペに応募し、入選。初の個展を開催し、写真家としてのスタートを切る。その後はチベットやバングラデシュで肉体労働の現場を撮ることを重ね、雑誌社などに売り込んだりするうち、依頼の仕事をもらえるようになったという。





インドのサンガネールという町。更紗(染織布)の工房で、
汗と染色まみれで働く職人たちを撮影  ©吉田亮人

もっと見たいというひとは👉
http://www.akihito-yoshida.com/g/calico/


 いまはようやくバイトとかもせずに写真で食えるようになりましたが、それまでは工場で短期で働いて、旅の資金にしていました。
(フリーランスの)将来に不安がないかと聞かれると、常に不安。だからマグロみたいに常に動いていないと不安になる。僕の場合、スタートが遅いので。
 だから、いつも写真集をつくるぞ、こんな個展をやろう、と始終ごちゃごちゃ考えている。「あんた、もうちょっと落ち着きなさい」とかよく言われるんですけど(笑)。

──ようやく吉田さんのことがわかりかけてきました。

 ああ、そうですか。よかった(笑)。

 ギャラリーでのインタビュー中、しばしばお客さんに声をかけられると、吉田さんが席を立つ。立ち話をし、座ってサインをしながら談笑するのをすこし離れたところから眺めていると、気さくな人柄だとわかる。
 臆したり、斜に構えたりするところがない。
「吉田さんって、すごくまっとうな人なんですね。写真家でなくとも、たいていの仕事はできそう」だというと、「僕、まっとう中のまっとうですから」と笑い返された。

 ただ、奥さんから言われる。「あなたは、組織では働けない。人と共同して何かするというのは難しい」って。

──見かけに反して、我がつよいということですか?

 だと思います。今回の写真集の制作も、編集者やアートディレクターたちとチームでやったし、チームでやることの楽しさもあったんです。同時に、もうめっちゃ我を貫き通した。折れないところはぜったい折れない。

──ギャラリーのオープニングの日のトークイベントの動画記録を見たんですが、今回の本をつくる最終段階の見本を手にした吉田さんが、チームのメンバーに「感動」を口にしている。にもかかわらず、翌朝にはプランの撤回を言い出したという逸話。冷静に考え、聞けばなるほどという理由はあったにしても、「あのときの感動は何だったの?」というのもあり、なんてひどいやつなんだろうと呆れました(笑)。

 そうなんです。じゅうぶんわかったうえで結局、押し通してしまったんですよ。それぐらい自分が乗らないことは一切やらない。

 ここで、ようやく難民キャンプを撮影しながら発表しなかった「なぞ」が解けてきた。ひとによっては写真家を断念してもおかしくないだろう。しかし、そうはしなかった。是非はさておき、すごい「我」を感じる。同時にそうでなければ写真家ではない、とも。

──ところで、吉田さんは撮影するときに、相手に話しかけながら撮るんですか?

 なにも言わないです。仕事の撮影の時は、めっちゃ、おしゃべりしながら撮りますけど。作品を撮るときには何も言わないです。

──依頼された撮影と、作品の撮影のちがいって何ですか?

 作品は自分のためのもので、クライアントのないもの。自分のためだけに撮る。自分にウソがつけない。自分と対峙しないといけない。
 作品の撮影だと、指示は一切しないです。あるまま。ポートレイトだと、ここに立ってもらえますか、くらいは言いますけど。だから写真を撮っていないところでは、めっちゃ近づこうとする。自分が居るのが当たり前に思われるくらいに。しゃべったり、一緒にご飯食べたり、タバコ吸ったりしながら。

──そのときにカメラは?

 持っています。僕、写真を撮り出すと、相手を好きになるんですよ。男でも女でも。ミーハーなファンみたいに、めっちゃ近づきたいという気持ちが高まるんです。

──面白いなぁ。話がすこし戻るんですが、難民キャンプでカメラを向けているときに、そういう感覚にはならなかったんですか?

 ああ……。なかったですね。でも、そのあとのインドでは、そういう感覚になったんですよ。高揚する、恋しているときの気持ちにちかい。時間が経つのも忘れしまうくらい。

──「伝えてくれ」といわれ、使命感にちかい気持ちはわいたにしても、自然な感情がついていっていなかったということなのだろうか。

 ああ、そういうことかもしれませんね。

──本当に頑固なひとなんですね。

 いろんなタイプの写真家がいますけど、僕は被写体と同化し、自分自身が感動しているものでないと写真を見返してもぜんぜん面白くない。自分の気持ちが入っているかいないか写真に出てしまうんです。
 写真って、カメラがあれば誰でも撮れる。でも、写らない。簡単に写るものじゃない。タイで、はじめてそのことを気づいた。それまで難民キャンプに行ければ、問題提起ができる。そんな浅はかな考えしかなかったんです。

 インタビューを始めたのは、ギャラリーが開く1時間前のお昼時。終わったのは日が落ち6時近くだった。タイの話をしつこく聞いたのは、おだやかな「ばあちゃんと孫」の写真にひそむ硬質なものが何なのか知りたいと思ったからで、撮影の際の距離感に関する話は、「これでおわります。今日はありがとうございました」と片付けに入ってからの雑談の中だった。


👆©吉田亮人 京都の書店・誠光社さんで、2019.3/16~31 吉田亮人写真展「日誌」開催
『THE ABSENCE OF TWO』(青幻舎)を各地の独立系書店をまわり、イベントを行いながら手売りしてきた記録展
http://www.seikosha-books.com/event/4311




最後までお読みいただき、ありがとうございます。 爪楊枝をくわえ大竹まことのラジオを聴いている自営ライターです🐧 投げ銭、ご褒美の本代にあてさせていただきます。