『絵と作文が死ぬほど嫌い』
絵と作文が死ぬほど嫌いだった小学校時代。
図工に至っては毎週木曜日の5,6時間目に予定されていたので、一時期、毎週木曜日に学校を休むというくらい嫌いでした。
いまでこそ、絵も文章も携わっていますが、小学校時代の事は思い返しても、胃が痛くなるくらい嫌い。
当時は嫌いだった理由も良く分からず、ただただ嫌いだったのですが、今になって分析してみると理由は大きく2つ。
1.表現したい事が無い。
そもそも絵を描く、文章を書くという行為は内側から湧き上がる思いが原動力になる行為であり、その"思い"無しに始める表現することはできません。
思いの無い表現は自己を殺して没頭する仕事の様なものです。
授業で無理やり何かを表現しろと言われるのは、本当に苦痛でした。
せめて、この授業は能力を養うためのものであると割り切って、使える技術を教えてくれれば職人文化の生まれの国の民の末裔として作品制作にも没頭できたかもしれません。
ある程度目標が明確な木工や習字が比較的好きだったのは、技術が向上している感覚が楽しかったのだと思います。もちろん、木工、習字においても、その技術の向こう、または全く別の次元に表現の本質があることも今では少しわかる気がします。
しかし、何も表現したい事が無い。
そんな作品制作に対する空虚さ、そのものが気持ちであり表現可能なものであり、白紙も一つの表現である。
という教師がいれば少しは救われたかもしれません。
ただ、それでは芸が無さすぎるので、空虚を表現した画家、作家でも紹介してくれれば、表現が如何に自由であるかをもっと早くに学べたのになんて思いますが、いまやどうでもよい事です。
そのような表現の不自由で、苦しむ人がいないように表現の自由さ、楽しさを伝えたいと思います。
芸術の分野における"何でもよい"は、
本当に"何でもよい"のです。
2.表現が否定される。
子供にありがちな上手、下手の判断。
"上手のは良い"、"下手なのはダメ"一度レッテルを張られたらもうその後は残酷な仕打ちの連続です。
以下ブログで
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